忘れん坊の外部記憶域

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公人の受忍限度に関する考察

 

 公人の「受忍限度」とは、公人が公務や公共の利益に関わる言動を行う際に批判や攻撃に対して一般人と比べてより広い範囲で我慢を求められるという概念です。

 これ自体は重要な概念ですが、ただ、受忍限度はそこまでマジックワードとして機能するわけではないと考えていることをまとめてみます。

 

公人の受忍限度

 公人の受忍限度自体は何かしらの法律で明記されているわけではありませんが、社会一般に存在するとされていますし、実際に各種判例でも公人の受忍限度は私人よりも高いとされています。

 もちろん受忍限度は妥当で必要なものです。

 公人は私人の言動と比較して社会に与える影響が大きいことから安易な権利行使が許容されず公共の利益のために不利益を甘受することが求められること、公人は私人と比べて反論の機会が保障されており受容範囲が広くとも問題ないこと、報道機関や国民による社会的監視の必要性などの理由から、公人の受忍限度は高い必要があります。

 要するに公益性が基準です。公益のために公人の権利を多少制約することは、「公人の人権制約という社会悪を実施したとしても、それをしない場合よりも広範な人権擁護が可能となる」ことが期待できるからこそ、言わば”公僕”として公人の権利は制約されます。

 

受忍限度が守るもの

 しかし受忍限度の存在が即座に「私人による公人への攻撃の自由」を意味するわけではありません。「公人は攻撃を我慢しなければならない」ことと「公人は攻撃していい」ことはイコールではないためです。

 たとえ公人に高い受忍限度があるのだとしても、それが公人を攻撃することの免罪符となるわけではありません

 私人と公人の区分や受忍限度の有無に関わらず、もっともっと基本的なモラルとして、他者を攻撃してはいけません

 受忍限度はその前提の上で「必要に応じて公人は攻撃を許容しなければならない」としているだけです。私人の側も「必要であれば公人に対して批判としての攻撃が認められている」だけであり、受忍限度さえ超えていなければいくらでも攻撃していいと認識することは明確に錯誤だと言えます。

 

 仮に「私は殴られても文句を言いません」と看板を掲げている人がいたとしても、その人を本当に殴ることは法的な妥当性と別に倫理的にはどうかと議論になるでしょう。

 

結言

 繰り返しとなりますが、腐敗を防ぐための社会的監視やパワーバランスの観点からも公人の受忍限度は高い必要があります。それが低い場合よりはよほどマシです。

 しかしそれは公人をサンドバッグのように批判してよいという免罪符にはなりません。私人もちゃんと考えたうえで、必要に応じて、必要な分だけ批判はされなければなりません。

 

 今回はモラルベースでの論理立てです。

 人によっては倫理よりも「言論の自由」が優越すると考える人もいるでしょうし、公人のモラルを疑い過激な攻撃を抑止として許容する人もいるでしょう。或いは私人と公人の権力の格差を理由とすることもできそうです。

 ただ、私としてはそもそも人を攻撃してはいけないことを社会の基盤とするほうが好みである、それだけのことです。殺伐としているよりは平和で穏健なほうが好みなので。