忘れん坊の外部記憶域

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道徳を用いた批判による自由主義の後退

 

 SNSなどで、「法」「論理」「科学」などではなく「道徳」を根拠に他者を批判する言説を見かけます。

 これは特に次のような分野で顕著です。

  • マナー・恋愛・家庭など価値観が時代とともに変化して正解の無い分野
  • 貧困・労働・政治など複雑で社会的な問題が自己責任として扱われやすくなる分野
  • 差別・弱者支援・社会正義など事実よりも政治的正しさが重視される分野
  • 趣味・消費・コミュニティなど同調圧力が強い分野

 

 もちろん道徳的価値観それ自体を否定するつもりはありません。誰しも何らかの道徳に関する基準を持っているものであり、それをぶつけ合い議論することは必要でしょう。

 問題は、個人の内面にある規範の調整ではなく、他者を裁くための武器として道徳が扱われることです。

 それが常態化した時、自由主義社会は後退するのではないかと懸念しています

 SNSが一つの言論空間として確立された現在、これは単なる個人の感情表現ではなく、社会的影響力を持つ現象になりかねません。

 

道徳を用いた批判の例示

 「道徳を用いた批判」だと少し抽象的過ぎるため、パターンをいくつか提示してみます。あまり好みではないのですが、分かりやすくするため具体的な例も挙げてみましょう。

  • 「そんなことをするなんて人として終わっている」「親として失格」など、行為ではなく人間性そのものを攻撃する
  • 「普通の人ならばこうする」「それは普通じゃない」など、マジョリティの規範を絶対視して多様性を否定し”普通”を道徳化する
  • 「貧困は努力不足」「鬱は甘え」など、構造的な問題を自己責任として軽視する
  • 「被害者の味方をしないのは非人道的」「差別に反対しない人は加担者と同じ」など、正義を利用して他者への攻撃を正当化する
  • 「その企業の商品を買うなんて倫理的におかしい」「あの作品を好きなのは人間性を疑う」など、本来価値中立な行為を道徳化して同調圧力で他者を責め立てる
  • 「子どもを静かに刺せない親は迷惑」「公共の場でそういうことをするのは失礼」など、マナーと道徳を混同して他者を批判する
  • 「共感しないなんてありえない」「そのニュースで怒らないのはおかしい」など、感情を道徳的規範と誤認して他者の内面にまで介入する
  • 「生活保護を受けているならば節約すべき」「被害者ならばこういう振る舞いをすべき」など、弱者に対して二重規範を用いて道徳的に正しい行動を強要する
  • 「その正統を支持するなんておかしい」「この政策に賛成/反対する人は悪」など、政策議論を善悪の話にすり替える
  • 「この事件に怒りを示さないのはおかしい」「怒りを示さないのは加担しているも同然」など、感情の政治化や沈黙の罪悪化を行使して怒りを道徳的だと強制する
  • 「自己管理できないのは人としてダメ」「成功できないのは努力不足」など、経済的・社会的成功を道徳的価値と誤認して他者を否定する

 

 他にも様々な類型が考えられますが、ひとまずこの辺りで区切ります。

 基本的には詭弁の類であり、最初から「道徳」に関する議論を行っているならばまだしも、「法」「論理」「科学」「社会」などに関する議論で「道徳」を持ち出すのは論点のすり替えです。

 道徳は個人の内面の規範であり、社会制度や因果構造を説明するための道具ではありませんし、他者を攻撃し断罪するためのルールでもありません。

 

道徳の権力と「正しさのヒエラルキー」

 道徳を根拠にした批判は、自動的に批判者を道徳的優位に置く構造を持っています。言わば道徳的優位の宣言です。

 なにせ他者の道徳性を批判する人は、より優れた道徳性を持っているに違いないとした理屈が成り立つのですから。

 これはモラル・グランドスタンディングや美徳シグナリングとした言葉で説明される行為であり、自己満足のためにモラルを利用して自身の優位性やステータスを誇示する行為です。

 ただ、これが社会全体に広がると、道徳が権力として機能し始めます。道徳的に強い言葉を使いこなす人が発言権を握り、道徳的に弱い立場の人が沈黙させられる、社会を善悪の階層で分断する道徳的ヒエラルキーの発生です。

 このような道徳性の上下で発言権が変わるような階層化が起こると、自由主義が前提とする「対等な議論」が崩れます

 

 また、道徳を用いた批判が常態化すると、世論は論理や科学ではなく些細な言動や不謹慎な失言の切り取りに邁進するようになります。それはただの監視社会です。

 本来、道徳とは内面の規範であるはずなのに、それが外部を監視するための道具となれば、人々は委縮して自由な発言が減り、リスクを避けるために無難な行動しかとらなくなり、失敗や未熟さも許容されなくなり、自由主義社会が是とする「自由な表現」「自由な試行錯誤」が大きく損なわれます。

 

 善悪のストーリーが単純であることも問題です。

 道徳を用いた批判は複雑な現実問題を善悪の二元論に単純化してしまいます

 その結果、本来は因果関係を適切に分析して問題解決をしなければならない事柄についても議論できなくなり、魔女狩り的な悪者探しのような自由主義を毀損する方向へ冒進することになるでしょう。

 

 さらに、道徳を用いた批判は批判者に責任が生じません。

 道徳的優位な批判者は「正しい」のであり、正しいことを言っているのだから批判された側にだけ責任が生じる、そうした理屈が用いられるためです。

 その結果、代案や背景事情を考慮しない無責任な批判が蔓延して社会が攻撃的になり、政治議論がスローガン化し、道徳的な怒りや正しさアピールが蔓延して社会全体が怒りのエネルギーで空回りすることになります

 

 道徳は大抵の場合で「数の論理」でもあります。自然発生的に生じるのではなく、多数派の価値観こそが道徳的であり正しい、そうした機序で定まるものです。

 つまり、道徳が批判の基準になるとマイノリティは道徳的に劣った集団として扱われる危険があります。「普通はこうあるべきだ」とした道徳の名のもとにマイノリティが排除されると、多様性や個人の自由を重視する自由主義は大きく後退することになるでしょう。

 

 道徳は可変的でもあります。時代によって基準は変わるものです。

 よって道徳を用いた批判が常態化すると企業や行政は道徳批判のリスクを恐れて行動が保守化します。炎上を避けることが目的となり、失敗を恐れてイノベーションは停滞すれば、自由な挑戦や創造を是とする自由主義の理念は機能不全に陥ること必至です。

 

 最終的に、道徳を用いた批判は個人の心まで支配します。

 人々は自分の内面にある道徳ではなく、外部の道徳、外部の評価基準に従うようになるためです。「叩かれないように振る舞う」「本心よりも世間体を優先する」ようになり、自由主義の根幹である内心の自由は完全に損なわれます。

 

結言

 様々なパターンを挙げてみましたが要するに、道徳を用いた批判は自由主義を静かに蚕食すると考えます。

 議論においては意識しなければ使ってしまいがちな詭弁であるため、留意しておく必要があるでしょう。