忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

我々は多くの物事に対して”意見”を持つ必要があるのだろうか

 

 オピニオンをメインとするブログで書くテーマではないかもしれないが。

 

意見を持つ必要性と現実

 規範的な人々からすれば、次のような発想は自然なことだと思うでしょう。

  • 私たちは世界で起きている様々な問題について目を向けて、情報を収集し、意見を持つべきだ。
  • 選挙権があるならば、適切な候補者を選べるよう、社会や政治について学び理解して賢い投票行動を取るべきだ。
  • 民主主義国家の市民である以上、私たちの政府が関与する重要な問題について情報を得て是非を判断する責任と義務がある。
  • 無関心であることが人道的危機をもたらす。善人が何もしなければ、それだけで悪は勝利する。

 非常に規範的であり、真っ当な正論かと思います。

 

普通選挙の重要性

 ただ、これらが現実的かと言えばなかなか難しいところです。

 これらは基本的にそうであれば望ましいことではありますが、そうでなければならないことではありません。規範として掲げるだけで充分であり、それが出来る人を称揚こそすれ、万人に求めるレベルではない話です。

 

 一定の見識や意見を持っていなければ政治参画や意志が拒絶されるようになる、そういった道徳的規範は極端ですが普通選挙の否定に繋がります。

 しかしながら、誰もが投票権を持てる普通選挙は現代民主主義にとって極めて重要な原理原則です。

 普通選挙が損なわれた場合、以下のような弊害が考えられます。

  • 代表制の正統性の喪失:普通選挙は「誰が権力を持つか」を決める唯一の源であり、これが制限されると政府は「国民の代表」ではなくなる。
  • 権力の自己再生産:選挙資格を制限すると、権力者は自分に有利な層だけに投票権を与えるようになる。
  • 政策の偏り:投票権を持つ層にだけ利益が集中する。
  • 政治的無力感の固定化:「どうせ自分は政治に関係ない」という感覚が社会に広がる。
  • 社会の分断:投票権のある市民と、権利のない半市民が生まれる。
  • 政治的暴力の誘発:平和的な政治参加の道が閉ざされると、人々は暴力や極端な手段に訴えやすくなる。
  • 説明責任の消失:投票権を持たない層に対して、政府は説明する必要がなくなり、不正・腐敗・縁故主義が広がる。
  • 政策の質の低下:多様な視点が排除されるため、政策は短期的・階層的になる。
  • 社会的信頼の崩壊:「自分たちは政治に参加できない」層が増えると社会全体の信頼が低下し、協力が難しくなる。
  • イノベーションの停滞:多様性が失われると社会の創造性が落ちる。

 

義務と平等性の対立

 誰もが情報を収集し、意見を持ち、無知を避けようとする熟議民主主義的な規範はたしかに正論です。そして社会をより良くしたいという善意にも溢れています。

 しかしその規範は自由選挙・普通選挙の原則と正面衝突しかねません。

  • 「情報を集めるべきだ」とした規範は、「集めない人は悪い」と道徳化し、無知な人の政治参加を軽視する文化を生み出す。
  • 「無知な有権者は問題である」は「投票権を制限すべきだ」となり、能力主義に基づいた制限選挙への道を舗装する。
  • 「意見を持つべき」は「意見を持たないのは怠慢である」と変貌し、自由主義を損ねる政治的強制が常態化する。

 もっとストレートに言ってしまえば、この規範意識には「情報収集や意見形成は誰でもできる」とした無意識の特権性が隠れ潜んでいます。現実には様々な理由で情報収集や意見形成が出来ない人がいるのに、そういった人を政治の場から透明化する発想です。

 これは言わば「善意に基づいた能力主義」であり、平等性を重視する現代民主主義にとってはあまり適切ではありません。

 

道徳的批難の詐術

 冒頭で列挙した意見の中でも、「無関心であることが人道的危機をもたらす。善人が何もしなければそれだけで悪は勝利する」は民主主義にとって最も危惧すべき発想です。

 たしかに歴史を紐解けば、ナチスを筆頭に人々の無関心と民主主義の失敗が人道的危機をもたらしたことがあります。

  1. 悪は善良な人の無行動によって勝利する
  2. ナチスは市民の無関心によって台頭した
  3. だからあなたも重大問題について学び理解し意見を持つべきだ

 このような三段論法は一見もっともらしく見えるでしょう。

 しかしこの論法は 「個人の政治的沈黙=悪の共犯」 とする、極めて強い道徳的非難を含んでいます

 

 人には意見を持つ自由もあれば意見を持たない自由もあります。

 それが自由主義・民主主義であり、これは"政治"に属する概念です。

 しかし意見を持たないことを「悪」と断じた瞬間、政治的自由は道徳的強制へと変質します。

 ”政治”の是非を”道徳”で裁く、これは典型的な論点のすり替えであり、詐術に他なりません。

 

アジェンダ設定の権力性

 そもそも、どの問題を重大と認定し、どれについて優先的に意見を持つべきかを設定するのは難しいことです。

 戦争、気候変動、移民、税制、マイノリティ、外交、安全保障など、どれが「重大」で「優先」かは立場によって異なるでしょう。

 この優先順位は政治的に争われます。

 つまり、“重大問題について意見を持て”という規範は、特定の政治的アジェンダを押し付ける道具になり得ます。何が問題かを決めつけられるのも、一つの権力です。権力で他者の意見を強制するのは、やはり自由主義や民主主義にとって望ましくありません。

 

結言

 善意に基づいた規範意識を持つこと自体は個人の自由ですし、決して悪いことではありません。

 ただ、それを道徳として振り回し他者に強要することは避けなければならないでしょう。それは民主主義を後退させる危険な鞭です。