忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

外国人にはどの程度忖度するべきか

 少し過激な記事タイトルですが、そこまで内容は過激ではない・・・はず。

 日本における在留外国人の人数は他の先進国と同様に年々増加傾向にあります。また昨今では減る一方の労働力を補填する目的で移民政策をどうすべきかという議論もなされています。

 移民政策についてはまあ各所で議論を深めていけば良いと思いますが、少し気になっていることがあります。それは文化的な側面に対する論調です。

相手に合わせる?相手が合わせる?

 その代表的なものは「外国人は別の文化で育ってきたのだから、日本人の考え方を押し付けず彼らの考え方を尊重しなければいけない」という類のものです。

 もちろん現実的な問題として文化的側面の擦り合わせは必要です。異なる思考や行動様式では円滑に仕事を回すことなんて出来ません。そちらはこう考えるがこちらはこう考える、では妥協点としてこうしよう、という調整は必須でしょう。ただその論調が「日本人側が合わせる」ことに傾倒してしまうことに懸念を持っています。

 英語のことわざに次のようなものがあります。

 When in Rome, do as the Romans do.

 ローマにいてはローマ人のように振る舞え

 日本語で言えば「郷に入っては郷に従え」です。

 例えば海外に日本人が働きに出掛けたとして、日本人はこうするものだと押し付けたらどうなるでしょうか。当然ながらそれではチームや組織に馴染むことはできないでしょう。どこかしらで相手に譲ってもらうところはあるにせよ、日本人側が主体となって相手の文化を理解し、その文化に合わせた行動様式へと調整することが必要となります。

 これは日本に来る外国人にも同じことが言えるはずです。日本人からもある程度合わせるにせよ、主体として変更するのは外国人側であるべきです。

いつまで経ってもお客様

 相手の文化を尊重するという名目で、日本人が日本に来た外国人に合わせたとしましょう。しかしそれでは外国人が居る時だけは特別扱いで日本人同士では従来のやり取りを継続することになります。それはまさにお客様扱いであり「貴方を私たちのコミュニティの一員とは認めません」と暗に示しているようなものです。そんな扱いを受けたら疎外感を覚えて当然です。

 コミュニティの一員と認めてもらうにはそのコミュニティの文化を尊重し、敬意を払い、従う必要があります。例えばインドでは右手で食事を取ることが正式な作法の一つですが、そこに行って「私は日本人だから箸で食べる」と言って食べた場合どう思われるかということです。「ああ、まあ、どうぞ」とは言われるでしょうが、残念ながらそれではお客様のままでありコミュニティの一員としては認められないことでしょう。認められるためには相手の文化を尊重し、こちらも右手で食べることが必要です。変わるべきは受け入れてもらう側なのです。

 確かに日本の文化は窮屈なところもあります。忖度や阿吽の呼吸など心の機微を察するところなどは同じ日本人同士でも難しいくらいです。しかし外国人にはそれは難しいから出来なくても仕方がないなんて言ってしまっては、彼らをコミュニティとして認める気は無いと言っているのと同義になってしまいます。もちろん日本人側も調整する必要はありますが、まずはこちらのやり方に合わせてもらうべきです。

最後に

 グローバル化における文化的側面は2種類の方向性があります。一つは多文化共生であり、もう一つは均質化です。前者は異なる文化を互いに尊重して認め合うことで、後者は最大公約数的な文化に収斂することです。

 個人的には違いがあったほうが面白いので、均質化よりは多様なほうが好みです。誰もがハンバーガーと中華料理だけを食べて英語と中国語のみで会話するような世界になってはつまらないと思っています。

 異なる文化を擦り合わせ過ぎるとそれぞれの特色が失われてしまいます。それよりはこちらにおいてはこちらの文化に合わせてもらい、あちらにおいてはあちらの文化に合わせる、それこそが互いの文化を尊重している多様性と言えるのではないでしょうか。

 要は過度な忖度はすべきではないというだけの話です。忖度が得意なのが日本文化と言えばそうなのかもしれませんが。

余談

 在留外国人の生活問題について福岡市社会福祉協議会が分かりやすいデータを取っています。

 日常生活の悩みは「税金がわからない」「言葉が通じない」「日本語以外で診療を受けられる病院が少ない」など言語の問題ばかりです。日本語は難しいらしいのでここは歩み寄りのしどころかと考えます。言語コミュニケーションを取れるようにすることは文化的側面の摺り合わせ以前の問題ですので。