忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

目的の擦り合わせと共有、共存に関して~個人と組織の付き合い方

 『個人と組織の付き合い方』。上手く言葉がまとまっていないけれどもなんとか書いてみたいテーマです。本当はじっくり温めて火を通したほうがいいとは思うのですが、少し半生で書いてみたいと思います。ミディアムとは言わないまでもレアくらいは火が通っていることを祈って。

 

個人の目的、組織の目的

 お金を稼ぐ、自己実現、暇潰し、世のため人のため。人それぞれ様々な目的を持って仕事に励んでいるかと思います。

 そういった個人の目的とは別に、企業のような組織も何らかの目的を持っています。目的があるからこそ人が集って集団になり組織化されるわけで、無目的な組織は有り得ません。野球強豪校の野球部であれば甲子園出場、ボランティアサークルであれば社会貢献、企業であれば利益を出して社会的役割を果たす、というようなものです。

 

目的がすれ違うことは互いに不幸

 理想を言えば個人と組織の目的が完全に合致していることが望ましいですが、多くの場合個人と組織の目的はぴったりと一致することはありません。よって上手く擦り合わせを図る必要があります。

 まずはそれぞれの目的が乖離している場合を考えてみましょう。

 

 個人の目的達成だけが突出している場合、その目的如何によっては組織の目的達成を阻害しかねません。

 確かに個人の人生は個人がコントロールするものであり、自身の目的に沿って行動することは良いことでしょう。しかし甲子園を目指しているチームにサッカーをやりたい子が入部するような事態は誰も得をしません。組織の目的とあまりにも乖離している場合は相性が悪いということであり、もっと自身の目的に近い組織、この例で言えばサッカークラブに移った方が良いでしょう。「俺はサッカーをやりたいんだから野球なんて止めようぜ!」と自身の目的成就のために周囲へ過度な負担と迷惑を掛けるのは我儘放蕩というものであり、そのような願望の強行は推奨いたしかねます。

 

 組織の目的達成だけが突出している場合、これもやはり良い環境とは言えません。日本国では国民の権利として思想信条の自由が認められている以上、組織が個人の意志を捻じ曲げて組織の論理に従うよう強要すべきでありません。

 また自己の願望が達成できないと悟った人間はモチベーションを著しく低下させますし、酷い場合は精神を病んでしまったり体を壊すようなことだって起こり得ます。組織を構成する人々が生き生きと活動できないような組織はその社会的役割を果たしておらず存在する価値がありません。そのような組織は早々に社会から退場していただくべきでしょう。

 

 以上のように、それぞれの目的意識が強固に衝突している状況では個人にとっても組織にとっても望ましくない状態となります。

 

重要なのは双方の目的達成でありたい

 個人と組織、それぞれが目的を持っていることは自然であり当たり前のことです。自己の目的を押し付け相手の目的を否定し合うような事態は避けるべきであり、必要なのはバランスです。極端に目的が乖離している場合を除けばどこかしらに共有できる目的があるものです。互いに譲れる部分と譲れない部分を擦り合わせ、必要な分だけ目的を共有し、悪く言えば妥協、良く言えば共存する必要があります。

 企業と従業員の関係を例としましょう。

 個人としてプライベートを優先するのであれば、その分勤務時間内はしっかりと動いて企業の目的である利益の確保を果たすべきです。プライベートが大切だから仕事をしないというのはさすがに通る話ではありません。

 同様に企業の目的達成に向けて従業員に尽力させるのであれば、その分の便宜を企業は図る必要があります。個人の目的を阻害するような強要は論外であり、個人に妥協させた分だけ企業側も譲歩を為すべきです。

 つまるところ、「俺は俺のやりたいようにやるぜ!」「給料を払ってるんだからなんでもやれ!」というような我の押し付け合いをして互いの足を引っ張り合うのではなく、息を合わせて前に進むことを目指したほうがマシだと考えます。

 これは企業のような大きな組織でなくもっと小さな組織、それこそ一対一の個人間でも起こり得る問題です。「私はこうしたいんだからあなたは従いなさい」というような関係性はまったくもって健全ではありません。そのような軋轢による摩耗はただの損失です。そうではなく、「僕はこうしたい」「私はこうしたい」「じゃあこの部分は譲れるから、ここを妥協してもらえるかな」という風な互いの尊重、世の中を渡っていく上での道徳心、ヤクザな言葉で言えば渡世の仁義というものを考え合える関係性が好ましいものです。

 

美学が許容される条件

 個人や組織の目的、もっと曖昧な表現を用いれば美学や夢と呼ばれるもの、それを貫き通すことはかっこいいことです。しかしそのためには条件を満たす必要があります。

 例えば美学には共感が必要です。その美学で他人を強制的に巻き込んでいくのではなく、周囲の人がその美学に惚れ込み、自ら巻き込まれていくような関係性であれば良いでしょう。そうでなければただの自分勝手で迷惑な存在と成り果てます。

 もしくは強制するだけの利得です。納得できるだけの得があるならば人や組織はその美学に付き従います。ブラック企業はその分かりやすい事例と言えるでしょう。組織は立派な言葉や夢を語りますが、それを強制するための便宜を図らず、福利厚生や給与といった利得を与えていないからこそブラック企業と呼ばれます。

 他にも様々な条件があるかと思いますが、いずれにしても必要なのは周囲の理解とフォロワーシップだということです。

 

誰もが生きやすい環境を希求する

 個人も組織も同じで、我を通そうと膨張すればその分周囲が圧迫されて反発を生みます。周囲の反発を受けることも、誰かの膨張に圧し潰されることも、いずれも生き辛さに繋がることでしょう。しかし、だからと膨張を避けて萎縮するのもまた良い在り方とは言えません。

 誰かの膨張が窮屈であればそこから離れたほうが良いでしょう。また自身が膨張する際は周囲に配慮をし、内側に取り込むなり空間を広げるなりして圧迫感を避ける手を打つべきです。個人も組織も、誰もが果たしたい目的を達成して「自分らしく」過ごすためにはそういった適切な施策が必要だと考えます。

 誰も彼もが自儘に膨張し合う世の中では押し合いへし合いになり、なんとも窮屈だと思うのです。