忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

お友達人事を嘲笑う無意味

 

 その揶揄にどんな意味があるというのか。

 

人が人を選ぶ

 お友達人事とはトップの人間が自らに近しい人間を優先的に選定して組織の人員配置を行う行為を揶揄する表現です。

 このような人事は一見すると不平等感が強く、ともすれば一種の不正にすら思えるかもしれませんが、実際にこの言葉がどれだけ有効かは少し疑問です。

 自らに近しい人を選ぶ、それは現実の人事では必然的なことだからです。

 

 人事、人の選び方には大きく分けて2種類あります。

 一つは定量的な方法です。

 タスクによっては個々人のパフォーマンスを完全に数値化することができますので、マニュアル化された仕事をこなすアルバイトや営業成績の形で成果が明確な営業職などはそのような定量的な指標で人を選ぶことができます。

 もう一つは定性的な方法です。

 必ずしも定量的な数値で換算できないタスクにおいては総合的な人物評価に依存せざるを得ないため、数値ではなく人が人を選ぶ人事が必要となります。たとえある程度の指標が数値化されていようとも、その採点を機械ではなく人が行うのであればそれは定性的な方法です。

 そしてほとんどの人事は定性的に人が人を指名することが今なお一般的です。

 

 これはシンプルな思考実験をすれば分かりやすい話かと思います。

 自身がどこかの組織のトップで、組織の役員を選定したりそろそろ誰かに後を引き継いで隠居しようと思っていたとして、その際、名前は知っているが顔は知らない、話したこともない、どんな人間なのかも知らない人を選ぶことはしないでしょう

 選ぶのであれば、名前も顔も知っていて、よく話をするので人柄も充分承知していて、一緒に働いたことがあり能力にも問題ないと思っている人を選ぶはずです。

 それは自らに近しい人を選んでいる点でお友達人事と言えるものですが、むしろそれ以外にどう人を選べばいいのでしょうか。

 

 他にも選挙などは分かりやすい事例で、多くの人は「知らない人」よりもまだ自らに近しい「知っている人」へ投票します。まったく聞いたこともない人よりは看板で見かけたことがある人、選挙カーで名前だけ聞こえた人よりはテレビの討論会を見ていて参加していた人へ投票します。まったく知らない人へ投票する人のほうがよほど少数派でしょう。

 

 当たり前のことですが、人は知らない人を選びません

 知らなければ選ぶ理由がないのですから。

 

結言

 多少極論ですが、畢竟、ほとんどの人事は人間関係によって決まります。能力の査定ですら多くは人が行うものであり、結局は評価者との人間関係や信頼に依存するものです。

 それこそ「会ったことのない田中さん」が絶賛する「顔も知らない佐藤さん」よりは、「自らの知人」が評価していて「自らもよく知っている鈴木さん」を人は選びます。それは当たり前のことです。

 

 いずれ文明が発展して全ての人間のありとあらゆる要素が数値で評価されるようになれば人事も機械的に決められるかもしれませんが、現時点におけるほとんどの人事は人が人を選ぶ行為であり、そこに人間関係の距離感が存在するのは必然です。それをお友達人事と揶揄する行為に意味はないと私は考えます。

 もちろんそれによって能力の低い人が選定されるリスクはあります。しかしそれに変わるより良い手段が未だ無い以上、私たちがすべきは揶揄ではなく別のやり方の模索と提案です。

 

 

余談

 東京都知事選のネット討論会に対するインターネットのコメントで、以下のようなものを見かけました。

 

「これを見れば候補者の人柄が分かる。彼女はお友達を優遇するタイプの人間だ」

 

 まさにこの見方自体が人柄という他者の人間性に判定基準を置いておりお友達人事はその延長線上に存在しています。人柄で人を選ぶ人はお友達を優遇するタイプです。

 とはいえ人が人を選ぶ仕組みである以上、今はそこから逃れることはできません。だからこそお友達人事を揶揄したり悪と断定する行為にはあまり意味がないでしょう。