忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

流されるがままでも意識はあるから困惑はする

 

 お盆です。

 連休中は堅苦しい話を少なめにしていく所存です。

 そんなわけで、先日の話の続きをします。

 

分かった、これは不得手な分野だ

 職場の女性陣の剣幕に押し負けてマッチングアプリをインストールしたのはいいのですが、困ったことに何をどうすればいいのかサッパリです。

 いや、一応「使い方がよく分からない」といった言い訳ムーブが許されない程度に登録方法や操作方法まで熱心に教示されているため、逃げ道は塞がれています。とりあえずアプリが紹介してくる人の写真を見て「いいね」的なものを送り、気になる人のプロフィールも読む、まずはそんな感じの入口のようです。

 

 私はこれがとにかく苦手なようです。

 別に綺麗事とかおためごかしとかそういうことではなく、根本的に「他者を容姿で判定することが苦手」なので困っています。

 次から次へと写真が流れてきても、「はあ、世の中にはいろんな顔の人間がおるんじゃのう」と思うばかりです。

 

 そりゃあ私も相貌失認というわけではありませんので、好みの傾向くらいはあります。例えばキツネ顔よりタヌキ顔のほうが好み、そんな程度の基準は持っています。

 ただ、私の好みから外れた場合は駄目かと言えばそういうわけではなく、私の好みに沿っていないことは判定の基準足り得ないとした認識を持っているため、別にその人はそういう顔の人であってそれでいいじゃないかと考えています。その是非を私個人の感性で判定するつもりがさっぱりありません

 これは普遍性と厳密性と合理性を重視する学問に長く関わってきた影響なのか、根底のところで私は個人の判断それ自体を高く見積もっていません。「自分がそう思う」はそれ以上でもそれ以下でもなく、少なくとも他者に対して何かしらのアクションを取る際の触媒程度であり論拠足り得ないと考えています。

 せめてどうしてそう思ったのか、どの程度思ったのかを定量的かつ言語によって説明しなければ他者に伝達するための理屈として弱く、私自身にとっては棄却すべき発想です。

 

 これをあえて概念的に言えば、世界の捉え方です。

 「自分にとっては自分の感じる世界が重要」だと感じる人もいれば、「他者と共通している世界のほうが重要」と感じる人もいます。私は後者ですので厳密に定義されて定量化されて言語化された世界を重視しますが、人によっては自分の好き嫌いこそが自分にとって大切だと考えるのでしょう。ここに善悪の差はなく、それぞれの認識の違いがあるだけです。

 

結言

 人は大なり小なり好き嫌いで物事の意思決定をするかと思いますが、その辺りの考え方が私は多少ぶっ壊れているのかもしれません。

 綺麗事でなく極めて素朴に「皆違って皆良い」と思っているため、その容姿を良いも悪いも判断していないのですから。

 そんなわけでマッチングアプリがひたすら紹介してくるので写真で是非を判定しなければならないのですが、正直個人的にはとても苦手だと感じています。

 困りました、盆明けの活動報告をどうしましょう。