人と比べても意味はありませんが、「勉強しています」と公言するレベリングの線引きは微妙に難しいと思っています。
毎日毎日しっかりとやってある程度身に付くまでやって初めて勉強していると言う人もいれば、まだ身に付いていなくともちょっとやっているだけでも勉強していると言う人もいますし、時間基準か頻度基準か成果基準でも変わりそうです。
私は毎日少しでもやっていれば勉強していると思います。でも休日にまとめて時間を取ってやっていても勉強していると思いますし、いやはやなんともはや。
これはどう?
とりあえず4月から始めた英語学習アプリDuolingoの成績を上げてみましょう。
英語スコアは気にしないでください、初心者コースですが、これは基礎から学び直したいと思ってのことですので。
いや、まあ、実際妥当なコースではあります。まだまだ全然英語が身に付いていないので、着実に基礎を固めるために初歩的なところから学び直すことは今の私の技量に合っています。
リーグはストレートで黒曜石まで到達できました。今週も頑張ればついに最上位リーグ入りです。特に上位リーグに入ったからといってご褒美があるわけではありませんが、せっかくアプリが競争を煽って勉強へのモチベーションを維持しようと頑張ってくれているのですから素直に乗っかることにしています。
今週の勉強量は大体毎日2000XP、別途メール通知では大体週に6時間くらいをこのアプリの勉強に使っているようです。多いか少ないかで言えば、微妙なラインです。学生の勉強時間に比べれば遥かに少ないでしょうが、社会人としては仕事終わりに週2回習い事へ行く程度の時間ですので、やっていると言っても過言ではなさそうな気はします。
自己評価はまさに自己が行うもの
ああ、得心がいきました。
要するに絶対時間ではなく相対時間のようです。当人の可処分時間に対してどの程度時間を割いているかが当人にとっての努力判定基準なのでしょう。
一分一秒刻みのスケジュールで生きる人からすれば1日5分でも割けば十分時間を使っていることになるでしょうし、無職の人であればもっと長時間でなければ閾値を超えなさそうです。他者から見ればどちらも勉強していると判定できるでしょうが、当人がそれを勉強していると判定して公言するかは別枠です。
私が英語を勉強していると公言するかに悩んでいるのもその辺りなのでしょう。週に6時間程度を英語の勉強に割いていることが他者と比べてどうかではなく、その気になれば休日に他の全てを止めて10時間くらい勉強に割くこともできる以上まだ可処分時間を割けると私が思っているからこそ、公言することが憚られているのかと思います。
まあ、要するに意識過剰です。他の全てを諦めてでもそれ一つに注力しなければやっていると言えないなんて過剰で過激で極端な発想に他なりません。この考えは謙遜ではなく傲慢に該当します。改めた方がいいでしょう。
よし、改めます。「私は英語を勉強しています」、はい。
結言
よく分からない疑問を持って、書いている途中に勝手に自己完結する。
そんな日記でした。