助けられたいのか、救われたいのか。
Help、Rescue、Assist、Saveなどなど
「助ける」と「救う」は近いニュアンスを持つ言葉ですが範囲や用途が若干異なります。
「助ける」は幅広い文脈で用いられる言葉で、主に補助・援助・支援に属する概念です。対して「救う」はより喫緊で生命にすら関わるような重大事に対して用いられます。
擦り傷の手当てをすることは「助け」であり、災害現場での消防や自衛隊の活動は「救い」です。駅で困っている人に交通費を出してあげる程度のことは「助け」であり、生活全てのお金を出す程度までいくと「救い」です。隣人の親切は「助け」であり、神の御心は「救い」です。
この手のニュアンスを腑分けする上では、当ブログでも度々行っているように別の言語を持ってくると理解しやすくなると考えています。いつも通り英語を援用させてもらいましょう。
「助ける」は基本的にhelpが該当しますが、helpも「助ける」と同様に幅広い文脈で用いられる概念であり、より狭義の「助ける」はassist, aidなどが用いられます。すなわち補助・支援に相当する概念です。
対して「救う」とはsave、rescueといったより直接的で全面的な概念に相当します。
要するに「助ける」とは能動的で「救う」とは受動的です。
何かしらのアクティブな行動に対してその補助や支援を行うものが「助ける」であり、受動的に全てを任せるものが「救う」となります。
宗教的な「救い」は一例として分かりやすいでしょう。その文脈からして全て神に委ねて保障されることが救いであり、神の救いはhelpではなくsalvationやsaveで表されます。神はセーブをしてくれますがヘルプはしてくれません。人生の汚泥から引き上げてくれることはありますが、冷蔵庫の醤油は取ってきてくれません。
神の救いを求める人はアクティブな救援ではなくパッシブな救済を求めています。
社会に助けて欲しいのか、救って欲しいのか
私は自由主義を愛するので救われたいとは基本的に考えません。それが無ければやっていけない状態は依存に他ならず、「救う」とはまさしくそのような状態を指す言葉だからです。
私は私の望む行動を取る上での助けは歓迎しますが救いは必要だと考えません。
ただ、世の社会運動の一部ではそれこそ宗教のように「助け」ではなく「救い」を求めていると感じます。
自らの生活や人生を保障してもらいたいと思うその気持ちは分かりますが、社会や政府は神ではなくお役所ですのでsalvationは管轄外です。能う範囲でのsaveを求めることは必要ですしそのための人権ではありますが、求めるには限度があると思っています。
社会運動を良い悪いで区分するのは妥当かはいざ知れず、ただ少なくとも救いを求める方向性のある社会運動はいずれ要求が飽和して瓦解するので、注意が必要です。
結言
お役所仕事的ですが、管轄に合わせて申請を出しましょう。
行政機関の仕事は主にヘルプです。
余談
ちなみに仏教も救済宗教の1つと呼ばれますが、それは大乗仏教であり初期仏教はそこまで甘くありません。
釈迦は自灯明・法灯明、すなわち己自身と仏法によって世を照らし自らを拠り所として自ら歩めと教えています。これは救いではなく助けであり、仏様が救ってくれる系の概念は後から追加された大衆向けのものです。