誰かが主張や意見を変えると、大抵は他の誰かに批判されます。
時には批難や誹謗中傷を浴びることもあるでしょう。
それでも、私はそういった他者からの攻勢を恐れて主張や意見を変えないことこそを忌避すべきだと考えます。
信念・主義・主張
変節を辞書で引けば、「節義を変えること」「自分の信念を時流などにこびて変えること」「従来の自分の主張を変えること」とされています。
要するに変節とは信念・主義・主張を変えることを意味する言葉です。
ただ、私は信念・主義・主張を同格のものだとは考えません。信念とは目的であり、主義や主張は手段だと明確に峻別して考えているためです。
信念とは「どうありたいか」「どうあるべきか」といった何かしらの正しい状態を確認している状態です。現状に対してどういった方策を取ることでその状態へ近付けるか、あるいは維持できるかを模索するための核であり、自らが信じる何かしらの正しい状態の実現を志向していることから、信念は目的だと明確に言えるでしょう。
対して主義や主張は目的足り得ません。主義や主張はその根底部分に何かしらの実現したい理想像が存在しているためです。主義や主張は常に何かしらの行動に紐づかれたものであり、その行動は必ず何かしらの目的を持ちます。そういった何かしらの理想像である目的が存在しない主義や主張はあり得ず、何かしらを達成したいと願わない主義や主張もあり得ません。
そしてその理想像である目的を私たちは信念と呼びます。
つまるところ、人には目的となる信念の土台があり、その信念に基づいて主義や主張といった手段を用いていると解することが妥当だと考えます。信念・主義・主張は同格ではなく、信念は別枠です。何かしらの信念に基づかない主義や主張は存在せず、逆に主義や主張は土台である信念を変革すべきではありません。
変節してはいけないもの
【信念】と【主義・主張】を明確に峻別する考え方からすると、主義や主張を変えることは変節に当たらないと思っています。目的のために手段を変えることは常套であり、むしろ手段に固執して目的を胡乱にしてしまうことこそが忌避されるべきだと考えるためです。
手段は手段に過ぎません。重要なのは目的を達することです。
極端な事例ですが、人々が幸福になることを自らの信念として、博愛主義を好み、人に手料理をプレゼントする人が居たとしましょう。
しかし残念ながら、そういった人に手料理をいただいて喜ぶ人もいれば、あまり他人の料理を好まない人もいます。
ここで手段に固執して手料理を渡すことを優先してしまった場合、人々が幸福になる信念が達成されなくなります。しかし目的と手段のどちらを優先すべきかは考えるまでもないことです。手料理をプレゼントする手段を変えたほうが目的の達成に資すると言えます。
同様に、意見を変えないリーダーは危険です。それは手段に固執した状態であり、目的を見失うタイプの人間だと言えます。リーダーに相応しい人物とは、主義や主張を変えない人ではなく信念を変えない人です。
結言
真に固執すべきは信念です。
手段は道具であり、道具は状況に応じて適宜変更して適切なものを選ばなければなりません。よって主張や意見を変えることは批判に値しないものですし、むしろ必要に応じて変えるべきだとすら考えています。
主義や主張に固執することはまさしく「ハンマーしか持っていなければすべてが釘のように見える」状態だと言えるでしょう。