忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

あるサラリーマンのある日のある思索

 

 少しサイズの合わないスラックスを纏い、安物の靴を履き、すでに肌寒い季節だというのにYシャツの袖を捲った男が一人、職場でだらしなく椅子に座り頭を捻っている。

 ありていに言えば、みっともない。フロアの端に座っているためそこまで目立っていないが、広く見晴るかせば少し目に付く程度には締まりがない。

 身なりや態度に気を遣っていないことから、少なくともやり手の営業マンでないことは誰が見ても分かる。

 それもそのはずで、彼は元々機械設計屋であり、昨年まではジーンズと作業着を着て工場に隣接された事務所で図面を描くことが仕事だった人間だ。人よりも機械とコミュニケーションを取ることを仕事としてきた人間にありがちな、良く言えば職人気質の自由さを持ち、傍目から見ればだらしない、実にエンジニアらしい風貌である。

 男は今年から本社へ異動してきて一年も経っておらず、まだ場に慣れていない。長年かけて染み付いた態様はそう簡単に変え難く、いずれは洗練されて本社の色に染まるかもしれないがそれにはまだしばしの年月が必要だろう。

 周囲のことは一切気にせず、男は一人思考の海に潜っている。男には思索にふける際は歩き回る癖があるが、工場の敷地内であればまだしも本社ではそうそう歩き回ることができないため、仕方なく椅子に収まっている。そして収まりきらずにだらしない姿勢となっている。

 

 

 ああ、めんどうくせえ。

 独り言ちても仕方がないことは分かっているが、どうにも気落ちが止まらない。

 来週のことを考えると少し気が重い。

 来週は海外から社外顧問がやってくる。普通であれば定年して楽隠居をする歳であろうご老体だが、会社経営をするようなバイタリティを持った人間にとって年齢はそこまで枷にはならないのだろう。

 幹部会では昨今の情勢について社外顧問と役員が情報交換をするようだが、そんなことは下っ端の俺にとって関係がない。その際に同時通訳要員として隣の部署の人間が駆り出されるため当人からは憂いの声が上がっているのを聞いたが、やはりそれも俺には関係ない。

 それよりも、幹部会に先立って行われるプログラムが問題だ。いくつかの部署から若手・中堅がそれぞれかき集められてそれぞれの部署の状況について社外顧問や役員へ報告するプログラムがあり、残念ながらそれに俺が抜擢されてしまっていることが目下の大問題なのだ。

 大層に聞こえるかもしれないが、実のところ別段特別なプログラムではない。元々は従業員の語学力向上、すなわち語学研修の一環として始まったプログラムであり、面子も会社がグローバル要員として育成している人材が招集される。ある意味では期待されているメンバーだが、やはり出世コースとは少し趣が異なった人選だ。このプログラムも悪趣味な言い回しをすればお年寄りが若者の頑張りを見て楽しむための会に過ぎない。

 

 そんな御大層に見えて大したことのないプログラムだが、現在の俺にとっては大きな障壁となっている。

 第一に、報告は全て英語で行う必要がある。一人あたりせいぜい一時間程度の短いプレゼンだが、カンペは許されない。質疑応答も含めて全て自前の英語力でこなす必要がある。

 そりゃあ顧問のお爺ちゃんはヨーロピアンであり国際語の英語でやり取りするのは自然なことだろうが、英語力に自信がない俺にとってはそこそこの苦行だ。

 第二に、何故か俺だけプログラムの趣旨から逸れたことを求められている。それぞれの若手・中堅は自部署の状況を報告するのだが、不思議なことに俺だけある工場の状況を報告するよう上から求められた。プログラムの招集者を先に決めた後、その工場の実情を聞きたい要望が悪魔的な合体をした結果、何故か俺に説明させることが決まったようだ。

 たしかに俺は工場出身の人間なので工場の基本的なフローは抑えているが、問題なのはその工場が俺の出身工場ではないことだ。工場なんてものはどこも縦割り社会であり、同じ会社だからといって他工場の内情なんて把握しているわけがない。その工場の状況報告を聞きたいのであれば、俺ではなくその工場の若手を選出すればいいだろうに。先日はこのプログラムのためだけにわざわざその工場へ赴き状況について慌ただしくレクを受けてきた。本来やるべき仕事が進まねえ。

 第三に、来週に差し迫ったプログラムに対して俺のプレゼン資料はまだ1ページもできていない。大したことのない身内のプログラムとはいえお偉いさん相手には最低限まともな資料を用意するのがマナーではあろうが、こちとら来月の中国出張に必要な資料作りが最優先だ。利益に繋がる仕事を優先することはサラリーマンの正義であろう。

 仲間の参加者から資料作りの進捗について話題を振られると、そうか、ひと月前から作ってるのか、凄いな、俺はまっさらだ、そう答えるしかない。

 

 英語が面倒だ。これは俺の仕事だろうか。時間がもうあまりない。それらが織り交ざり混然一体となって俺の気力を削いでくる。頭の中で書いているドラフトは概ね完成したが、それをプレゼン資料の形に落とし込むのはひと手間だ。

 手ぶらで行きホワイトボードを使ってアドリブでこなすこともできないことはないが、準備も含めてのプログラムだろうから考えるまでもなく怒られるだろう。

 ああ、仕方がない。やむを得ない。やるしかないのだからやるしかない。

 

 会社の顧問に対して他所の部署の状況報告を英語で行う。

 ああ、実際は大したことのないイベントなのだが、文章にするとやはりヘヴィに思える。

 本当に、後回しにして来月の海外出張の準備を優先してきたくらいにはどうでもいいプログラムなのだが。

 ただ、それに煩わされるのはなんとも面白くない。

 

 そうだ、帰ろう。もう夜だし。お腹すいたし。

 時間はもうさほど無いが、明日の俺がなんとかするだろう。

 まあ、明日は出張だが。それが駄目でも明後日の俺がやるさ。なに、来週までには7人の俺がいるのだからなんとかなるだろう。

 

 

 男が現実から目を逸らすようにふと顔を背けると、窓の外にライトアップされた夜景がよく見えた。いずれは見飽きるだろうが、20階以上の高さから眺める東京の景色は異動してきてから一年も経っていない男にとってまだ新鮮味が残っている。クリスマスシーズンに向けて日々装飾が増していく様は、尚更だ。