忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

世の中は理不尽であり、合理でもある

 

 いや、まあ、朝に投稿しようと思っていたのですが、そうは行かないのが現実というもので。壮大な前振りからの、実に残念な結果です。

 

 まとめると、そろそろ通常通り朝に更新するスタイルへ戻すためにも連休最終日の明日は朝に投稿したいと思っている、そんな話でした。

 

自己開示的な日記 - 忘れん坊の外部記憶域

 

 まあ、世の中そんなものです。

 自分の思うままに世の中が動くはずはありません。

 

思うがままの世界

 世の中とは理不尽で不合理なものと思われる方もいらっしゃると思います。

 自らの思う通りにはまったく進まず、どこかの誰かの何かしらの行動がバタフライエフェクトのように影響してきて私たち個人が求めている行動を阻害している、そんな感覚でしょう。

 ただ、それはある意味で合算的な合理だとも言えます。

 なにも難しい話ではなく単純なことです。「世の中とは理不尽だ」と述べる方は、しかし自身は思うがままに振る舞おうとしています。思う通りにならないのが理不尽であれば、その前提として、自らは思う通りに振る舞おうとしているためです。そういった自らの思うがままの振る舞いを阻害されるからこその発言に他ならないでしょう。

 要するに「世の中とは理不尽だ」とした発想は、そう言いつつも自らは他者を慮らず思うがままに振る舞おうとしている以上、周囲からすればその人こそが理不尽の象徴です。世の中が理不尽なのではなく、当人が理不尽な存在だとすら言えます。

 

 これは何も特殊な人の話ではなく、むしろ一般的で普通の人です。誰だって自らの望むままに行動して望むままの結果を得たいものです。それは当たり前のことでしょう。

 しかしそういった人々がそれぞれの思うままに腕を振り回していれば、いずれぶつかるのは必然です。

 つまり世の中の理不尽とはただの個々の願望の合算であり、世の中が理不尽なのはどこかの誰かの悪しき陰謀などではなく、誰も彼もが自儘に振る舞おうと好き勝手動いている結果です。

 さらに言えば、世の中の理不尽を正すこととはまず自らが望むままの振る舞いをすることを控えることと同義です。そうすれば少なくとも理不尽な衝突は生じません。

 ただ、それはそれで窮屈な世の中になるでしょう。

 

結言

 つまるところ、誰も彼もを縛り付けて腕を振り回せないようにするか、衝突して痛い思いをしてでも腕を振り回す自由を残すか、私たちはどちらかの道を歩むしかありません。

 私は自由主義者ですので後者を希望しますが、これはかつて世界を二分した自由・統制社会の対立と同一の構造ですので、今であっても世論を統一することは難しいと思っています。

 何はともあれ現時点での世の中は理不尽なものであり、私たち自身が他者にとっての理不尽であることは留意しておく必要がありそうです。