少し触れ難いテーマではありますが、「ありのままの自分を愛する」ことへの批判的見解を展開してみましょう。
別に「ありのまま」であることを本気で否定したいわけではなく、あくまで異なる意見の提示です。
ありのままの落とし穴
「ありのままの自分を愛しましょう」に類するフレーズは、一見すると自己肯定感を育むための優しいメッセージのように思えます。
ただ、「ありのまま」であることが理想的か、或いは本当に自己肯定的かと言えば個人的には少し疑問です。
例えば現状の自己に対する無条件の肯定は欠点や未熟さを改善するための努力や意識を損ねる口実になりかねませんし、むしろ下手をすれば怠惰や無責任な行動ですら「これがありのままの自分だから」と受け入れる危険があります。
変化を拒絶して現状を追認する行為が真に理想的かと言えば、残念ながらプラスの方向には向かわないでしょう。もちろん何を理想と置くか次第ではありますが。
そもそも自己認識を過大評価すべきではありません。
他人に対する色眼鏡よりも自分に対する色眼鏡のほうが外すのは難しいもので、「ありのままの自分」を正確に理解している人はまず居ません。実際には理想化された自己像や現実逃避的な自己認識を「ありのまま」と誤認している可能性があります。
理想的な「ありのままの自分」と「実際にはそうではない自分」の齟齬は自己欺瞞と認知的不協和を強化して社会的な関係性に歪みを生じさせることでしょう。
「ありのままの自分」は協調性や配慮に欠けかねないことも注意が必要です。
他者や社会から受ける外部的な影響の多くは「ありのままの自分」とはマッチしないものであり、「ありのままの自分」像を固持するためには他者との調和や社会的責任を無視せざるを得ません。つまり構造的に「ありのままの自分」は自己中心的な自己愛に基づくこととなり、他者からの提案やフィードバックを拒絶する頑迷固陋な態度が「ありのまま」として美化・正当化されると集団内での摩擦が増える結果をもたらします。
争いが増える方向の考え方が理想的で優しいものかどうかは、やはり再考が必要ではないかと思う次第です。
もちろん自己否定ばかりでは健全な精神は保てませんので、時には「ありのままの自分を愛する」無条件の自己肯定が必要です。
さらに言えば何事においても「変えられるもの」と「変えられないもの」があります。自分の変えられる部分を無理に愛する必要はありませんし、変えられない部分を無理に変えようと苦悩する必要もありません。
変えられない部分はそのままを愛し、変えられる部分はより良く変えていく、要するにバランスです。全面的な自己肯定に走るのではなく、必要に応じて変えられるところは変えていく勇気を持つこと、「ありのままの自分」だけではなく「変わる自分」をも同時に愛することこそが最も成熟した自己愛、自己肯定感と言えるでしょう。
ポジティブワードの検討
唐突に、「ありのままの自分を愛しましょう」を超える、なんだかポジティブなワードを考えてみましょう。
「ありのままじゃ物足りない」
「“本当の自分”は、まだ出会っていない」
「“ありのまま”より、“なりたいまま”で」
「変わるたび、もっと好きになる」
単語の力によるゴリ押しではありますが、本質的にポジティブな自己肯定とはこういうベクトルなんじゃないかと思っています。
結言
前提として、自己肯定感の低い人は「ありのままの自分」、すなわち現時点の自分が好みではないからこそ自己肯定感が持てないのであって、自己肯定感を持つために自己肯定感を持てない自分を肯定するのは少し欺瞞的に感じてしまいます。変えられない部分はどうしようもありませんのでありのままを愛するべきですが、変えられる部分はもっと好きな自分に変えていく努力も必要でしょう。
もっと言えば、結果や現状ではなく過程を愛するようにするのが合理的でしょう。
何故ならば私たちはいついかなる時も変化の途上であり、過程を愛する人は常に自己肯定感を高く保つことができるのですから。
「嫌いなものを嫌いな現状の自分」を愛そうとすると無理が生じます。嫌いなものは嫌いなのですから、それは欺瞞です。
「嫌いなものを克服した結果の自分」を愛すると、克服できなかった場合に自己否定が生じます。成功だけを尊ぶと失敗を恐れることになるでしょう。
「嫌いなものを克服しようとする自分」を愛すること、これが一番健全です。その結果がどうであろうと挑戦している自分を愛することができれば、多くの変化を受け入れてより良い変化を起こしやすくなり、もっと好きな自分になった自分を愛せる、言うなれば”自己肯定感のポジティブフィードバックループ”に入れます。