ちょっとした思考実験。
人権は「個人」の枠組みで語られることが多いように思えますが、実際には「関係性」の枠組みで捉えたほうが実態を把握しやすいのではないでしょうか。
人権の枠組み
人権は個人(indivisuals)に限定されず集団(groups)も保有するものですが、基本的には個人が保有する権利として語られることが多いでしょう。
そして個人の自由・生命・尊厳・表現などを守るために人権の概念が広く用いられていることから、個人を守るための防壁として人権がイメージされることは多そうです。
ただ、実際の人権はそこまで”個人の防壁”としてだけ機能するわけではありません。公衆の利益に基づいて社会秩序を維持するために個人の権利が制限されることは当然起こり得ますし、個人間であってもそれぞれの権利が侵害されかねない場合は調整が必要になります。
例えば「誰もが自由に発言できる」権利は同時に「他者に沈黙を強いてはいけない」制約として機能します。防壁は見方によっては檻としても機能することがある、そう言い換えられるでしょう。防壁或いは檻との距離は相対的で、基本的には膨張して広がろうとするものの、時に個人を抑えつけるほど狭くなります。
つまるところ人権とは絶対的な防壁として個人の自由を常に最大化するためのものではなく、相互の自由を調整することで全体の安定を図ることが優先される概念です。
「私」以外の全ても「個人」
もっと率直に言えば、人権を「個人」の範囲で捉えること自体は概ね誤りではありませんが、その「個人」の定義を正しく認識する必要があります。
人権の概念を扱う際、時に「個人」を「私」と誤認する人がいます。
しかし実際には全ての人が「個人」であり、むしろ「私」は「個人」の中でもごく一部の存在に過ぎません。
80億以上の「私」以外の「個人」の権利と比較すれば「私」一人の権利など微小なものであることを忘れて「個人」を「私」と誤認している人は、極論ですが世界中に居る多数の「個人」と対立しているようなものです。世界中を敵に回すなんてジュブナイルの中だけで十分であり、良い大人が夢想するようなことではないでしょう。
大人げない言い回しとなりますが、世界を敵に回してでも己独りの意を通そうとする人は「かっこいいヒーロー」などではなく、世界征服を目論む類の「時代遅れな邪悪」です。
「個人」の意味を捉えるならば、人権は個人の絶対的な防壁ではなく、相対的なバランスを取るために掛けられる橋と考えると分かりやすいかもしれません。「私」を含む80億以上の「個人」がそれぞれ権利を行使するために相対的な調整を行うための概念が人権であり、それら「個人」を繋ぎ合わせるための架け橋こそが人権です。
そのように、人権とは「個人」の枠組みよりも「関係性」において使われる概念だと捉えると人権に対する理解が進むのではないかと愚考します。
結言
人権は個人を壁で囲って孤立させるためのものではなく他者との関係性を築き社会的連帯を維持するために用いられる橋のようなものであり、人権は本質的に「関係性」の中に存在しています。
その点を充分に留意して、人権を取り扱う際には「個人」を「私」に矮小化しないよう気を付けることが必要かと思います。