忘れん坊の外部記憶域

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モラルと党派性~多様性がある社会を作るには

 モラル(moral)とは、道徳や倫理と訳せる言葉です。正しい(right)行いと悪い(wrong)行いに関する原理に関連する言葉で、善(Good)と悪(Evil)の違いを意味しています。善い行いはモラルに則っており、悪い行いはモラルに反している、というように使われます。

 では善悪とはどういう意味か、哲学・倫理学・宗教学で長いこと議論されている内容ですが、概ね次のように定義されています。

 「人類全体やある集団の客観性において、それが望ましいか否か

 集団の道徳や倫理観に基づくものですので、特定の基準があるわけではありません。ただ、基本的な原理としては善とは”共存”、つまり社会集団を保つために好ましい行動が善とされます。反対に悪とは”共存”を拒否する行動です。よって社会集団を崩壊させかねない行動、すなわち盗みや殺人、詐欺や暴力はほぼ全ての社会集団において悪とされています。

 なぜ人は決められた法律やルールを守るべきなのかもこの観点から説明ができます。つまりは法律やルールは人類や社会集団の”共存”に繋がるよう定められており、それに反する行為は”共存”を拒否する行動だからです。

 なぜ”共存”を善悪の基準としたかは人に限定された話ではなく社会生物学の範疇になります、群れを作って社会を構築する動物は人間と同様、習性的に種や社会の自己保存機能を保持することを優先します。まあ特に難しい話ではなく、自己保存機能を持たない群れは自然淘汰されて残っているのが機能を持つ種だけだからです。

 

党派性とは

 党派性とは主義主張が一つの集団に片寄っていることです。政治思想っぽい言葉ですが、別に政治思想に限らずあらゆる主義主張に関連する言葉です。

 人間が党派性を持つことは当たり前ですし仕方がないことですが、これが極限まで辿り着くと弊害を持つようになります。昨今、と言わず歴史上様々な問題を引き起こしているのが党派性の弊害で、この概念を知っておくと物事の見え方が少し変わりますので説明しましょう。

 

党派性の弊害

 党派性が高まっていくと自分たちの主義主張に従わない集団や個人のモラルを疑うようになります。前述したようにモラル・善悪の境目は”共存”できるかどうかですが、主義主張に従わないものとは共存できないからです。つまり党派性が高まると、自分たちの考えは善でありそれを理解しない人々は悪である、と考えるようになります。相手方の”悪魔化”が発生してしまうと、その悪を攻撃して排除することが”善”と考えられるようになります。

 個々の集団や個人間で見るとその理屈は正しいように見えます。相手方は自分たちの主義主張に従わない、”共存”を拒否している、それは悪の行為だから排除しなければならない、となるわけです。

 しかしながら人類全体の客観性で見た場合、他者への攻撃は人類社会の”共存”に反するため明確に悪である行為です。つまり自分たちの主義主張に従い善なる行動を起こしているつもりであっても、大きな視点で見た場合のモラルハザードが引き起こされている状態になります。これが党派性の弊害です。

 

 歴史上どころか、現在でもこの手の事例は無数に発生しています。

 バランスを取って様々なパターンの事例をいくつか挙げてみましょう。

【テロリズム】

 右翼や左翼、宗教団体が主に起こす行為で、自らの主義主張を通すため暴力を用いて恐怖によって相手の行動を支配しようとする行動です。説明が不要なくらい党派性の弊害を示しています。

【紅衛兵、クメールルージュ、大粛清】

 左翼の共産主義者が起こした事例で、いずれも党の方針に従わないものに危害を加えたものです。

【ピザゲート、在特会の抗議事件】

 こちらは右翼の国粋主義者が起こした事件で、反対運動のために暴力的な行動を取ったものです。

【十字軍、魔女裁判、廃仏毀釈】

 これらは宗教によって起こされたもので、正義のために暴力を振るうというモラルハザードの事例です。

【メディア報道、ネットリンチ】

 昨今問題となるもので、自分たちの側が正しく、相手が間違っているという場合に一方的に攻撃を加えているものです。

 メディア報道でいえば椿事件やCNNのトランプ報道が分かりやすい事例です。自民党やトランプが自分たちの主義主張と異なることから、どのようなデマやでっち上げでもいいから叩いて政権から引きずり下ろす必要があるという放送倫理に違反したモラルハザードを引き起こしていました。

 ネットでもポリティカルコレクトネスに反した「不適切な発言」をした人は叩いてもいいというモラルハザードが引き起こされやすくなっています。正義中毒とも呼ばれていますが、本来「不適切な発言」をした人を他者が攻撃していい理屈はありません。相手を悪の側に置き、自身はその反対だから善の側にいると考えるのは勝手ですが、それは暴力的な攻撃・批判を是とすることではないのです。正義は悪を攻撃していいという勘違いは十字軍や魔女裁判と同レベルの立派なモラルハザードです。

 党派性の弊害は日々至る所で発生していますので、ニュースを見る時にはこの視点を持っていると一歩引いた目で物事が見れるようになると思います。

 

多様性のある社会

 党派性が高まった社会では多様性を実現することができません。「多様性を持たなければならない」という党派性が高まるとそれ以外の考えとは共存できなくなり、社会から除外しなければならないと考えるようになるからです。それが達成できたとしても残るのは「多様性を持たなければならない」という考え方1つだけで、逆にまったく多様性が無い状態になってしまいます。

 多様性のある社会を実現するには、哲学者ローティの思想が参考になるでしょう。

 私たちは誰もが自分の価値を決める、自らを正当化することを求めて探しています。そのような言葉をローティは終極の語彙(Final vocabulary)と名付けています。日本語で言えば価値観が近い表現かもしれません。ローティが言うには、この終極の語彙とは偶然であると考える必要があります。

 今現在自分が持っている終極の語彙は大切なものではありますが、これは環境や経験によって偶然構成されたものであり絶対的なものではありません。これが絶対的なものだと考えてしまうと他者の終極の語彙を否定する以外には無くなってしまうためです。終極の語彙は他者に押し付けるべきではなく、むしろ互いに感化して個人の内でより良く変化させるべきだとしています。このような考えの人をリベラル・アイロニストとローティは呼びます。

 ここまでであれば寛容や受容という言葉でも語ることができますが、ローティは少し進んだ説明をしています。

 終極の語彙が偶然であるということから、リベラル・アイロニストは他者の終極の語彙も同様だと気付き、互いの終極の語彙が分かり合うことは無理だと考えます。終極の語彙は偶然で絶対的では無いというのに分かり合おうとすると互いに自分の終極の語彙を押し付け合うことになってしまうためです。だからこそ分かり合いたいという思いは私的な内側に秘め、公の場に出すべきではないとしています。

 私たちは通常、私的な感情は自由だけども公的な場では普遍的価値に従うべきだと考えてしまいますが、ローティに言わせればこの普遍的価値を目指そうとするのは私的な感情であるということです。もっと簡単に言えば、貴方の信じる普遍的価値と誰かの信じる普遍的価値は異なるものであり、それを押し付けるのは公的にみえてその実は私的欲求だということです。

 「こうあるべき」だと信じる普遍的価値を公の場に出すと軋轢が生じるのはまさに党派性の弊害を表しています。例えば「女性差別はすべきではない」というのは多くの人の普遍的価値でしょう。しかしそれを持って女性差別をした人を攻撃することは、まるで公共の利益であり正義かのように錯覚しますが、それは所詮私的欲求に過ぎないというわけです。

 相手の終極の語彙も偶然によるものであることから、いくら自身の信じる正義を押し付けたからといって相手と分かり合えるとは限りません。それを押し付け合うのではなく、互いを尊重し、コミュニケートを取り続ける、その絶え間ないやり取りの間に生まれるのが多様性のある社会であり成熟した関係性ということです。