忘れん坊の外部記憶域

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物事は比較しなければ分からない~科学的思考の応用

科学における観察と実験

 科学史における初期では観察と測定による分析が基本でした。自然や現象を詳細に見て、測り、分析し、解析し、そこから何らかの法則を導き出す行いです。古代の哲人は優れた洞察力による観察で世界の形を見極めていました。世界を眺めているだけで地球が丸いことや原子の存在を言い当てる古代の知の巨人には恐れ入るばかりです。

 その後人類史が進むにつれて対象に直接操作を行って検証をする実験という方法が導入されました。観察等によって構築された仮説や理論がどうかを実際に確認する行いです。

実験と比較

 実験において重要なことは対照性と再現性です。これは時間軸が異なるだけで、どちらも比較することを意味します。

 対照性とは「今現在」での比較です。ある要因が現象に影響すると考えられる場合、その要因以外は同じ条件として要因のみを変えることで現象の差異を確認する実験を対照実験といいます。薬で例えると分かりやすいかもしれません。同様の患者群を2組用意して、片方には効果があると思われる薬を与えて、もう片方には効果の無い偽薬を与えて、その結果を比較することで薬の効果が本当にあるかを観察します。まあ実際には治験はもっともっと厳密かつ複雑なものですが、分かりやすさ重視の例え話です。

 それに対して再現性とは「過去」との比較です。時間以外の条件を整えた場合、今現在と過去で同じ結果が出るかどうかを確認することを意味します。科学理論としてはいつ誰がやっても同様の結果をもたらすかが重要です。「落下物の速度は質量に依存しない」という理論に対して、昨日は重いリンゴと軽いリンゴの落ちる速度が同じだったけれども今日は違う速度で落ちた、となればその理論は科学的とは認められないわけです。再現性が検証されて初めて科学理論として認められます。

 再現性に関する著名な事件としてはヘンドリック・シェーンによる高温超電導の不正や小保方晴子によるSTAP細胞の不正があるでしょう。いずれも優れた科学として一時脚光を浴びましたが、他の研究者が追試して再現できなかったことが不正に気付かれる一因となりました。

 この辺りは実のところ学問分野を問わないところではあります。多くの学問は先人の論理を積み重ねてきたものであり、土台に瑕疵があった場合それ以降積み重ねられてきた論理の全てが崩れ去ってしまうものです。

比較しなければ分からない

 科学的かどうかを決めるのは対照性と再現性、つまりは時間軸は異なれど何らかと比較した結果によるということですが、この科学的思考は他のことにも転用することができます。科学に限らず、物事というのは比較しなければ分かりません。

 例えば、現在は格差が広がっている格差社会だという見解があります。これをどう考えるかは何と比較するかが重要です。一億総中流社会と呼ばれた1960年代あたりと比較するのであれば間違いなく現在のほうが格差は広がっています。対して江戸時代や明治時代と比較すれば、当時の国民は9割が農民でありその多くは小作人、つまり土地や財産を持たない人々でした。そのような時代と比較すれば現代は格差の少ない社会と言えます。

 また、ものすごく極端な例として生まれた時から無人島に一人暮らす人が居たとして、この人は自らを貧乏だと嘆くでしょうか。背が低いとか太っているとか顔が悪いとかを気にするでしょうか。小心者であるとか気が短いとか記憶力が悪いとかを考えるでしょうか。他者という比較対象が無いためそのような考えは持たないでしょう。

結論

 つまるところ、全ての指標、基準となる何かしらは比較からしか生まれないのです。よって物事を判断する時は何とどう比較するかを気を付けなければいけません。特にメディアはセンセーショナルな記事を書いて読者を集める必要があるため一番大きな差が出る比較を使いがちです。そういうものにはあまり捉われないようになりたいものです。

 

余談

 私は自分の文章を下手だと思っています。どうにも読みにくいと。これも「他の上手い人」と比較しているからこその発想です。私が私の文章しか見ないのであれば、文章とはそういうものだとなり、上手いも下手も考えないでしょう。

 安易に他者と自らを比較するのは危険ではあります。優越感と劣等感は人間の持つ感情の中でも強力な部類に属しますので、人生に大きな影響を与えてしまうことが多々あります。しかしながらまったく比較を拒絶するのも困りものです。他者と比較をしない「ありのままの私」をあまりにも肯定してしまうと成長は存在しないのですから。人間何事もバランスが大切ということです。