忘れん坊の外部記憶域

主に時事やビジネス、政治経済や興味を持ったことについて書き散らしています。

昨日までの自分を越え続けるのは不可能

 今日はちょっと説教くさい話を一つ。

 勉強、仕事、クリエイティブ。何事においてもそうですが、人は昨日までの自分を越えようと努力しています。内容によっては繰り返しの業務や前動続行が必要な場合もありますが、多くはより良く、より早く、より優れた成果や作品を目指して改善がなされていくものです。それ自体は人類の発展というマクロな視点や自らの生活向上、自己満足というミクロな視点のどちらから見ても善なる正しいことでしょう。

 しかしこれを意識しすぎると強いプレッシャーを感じることになり心身に悪い影響を与えてしまいます。「今回は前回よりもよく出来ているだろうか」ということを考えるのは悪いことではありませんが、それに囚われ過ぎるのは危険だということです。

他人の期待は制御できない

  確かに以前よりも今回のほうが出来が悪い場合、それを見て失望する人は出てきます。これには二つの視点があります。他人の期待自身の期待です。

 他人の期待は実のところ何の意味もありません。前よりも成績が落ちた、少し難しい仕事を頼んだら出来なかった、前作のほうが面白かった、これらの失望は全て他人が想定していた期待に今回は届かなかったという結果起きるものです。

 失望されたくない、期待に応えたいという気持ちは分かりますが、重要なのは相手の期待値はコントロールすることができないということです。相手はこちらの実力を正確に把握しているわけでもなく、どれだけ今回はリソースを使えるかも分かっていません。現実的ではない極端に高い期待を持つ人もいることから、全ての人の期待に応えることは絶対に不可能です。

 よって他人の期待は気にするだけ意味がありません。コントローラブルではないことは自身の責任ではないのですから。言い方は悪いのですが勝手に期待して勝手に失望しているだけであり、それに一喜一憂しても仕方がないのです。

自分の期待は結果にコミットするわけではない

 自身の期待を気にするのは自縄自縛の極みです。自分がどれだけ自身に期待していようが他人からすれば関係がありません。他人が見ることができるのは自身の期待ではなくアウトプットだけです。

 また期待をして願望を持つことは、前向きになる、やる気になる、積極的になるというような心理的な効果があります。しかしそれは過程に対してのみであり結果に対する保証ではありません。もちろん心理面でプラスに働くこと自体は悪いことではないのですが、結果が出なかったからといって期待が悪かったということにはならないのです。心理面での下駄を履いてもそこまでの結果に届かなかったということで、期待を高く持ち過ぎたと反省して次からは修正すればいいだけです。

 つまり、期待と結果に関連性を持たせるからプレッシャーになるのです。期待は途中過程の心理に良い効果を与えるものであり、結果に責任を持つものではないことを覚えておく必要があります。

成長には壁を乗り越える必要がある

 常に同じ加速度で変化し続けるものはまず日常的にはありません。そんなものは宇宙のような遠い世界の話です。落下物だってどんどん加速していきますが終端速度まで到達するとそれ以上速度は上がりませんし、植物だって遺伝子に基づいて成長が止まります。

 人のアウトプットも同様に必ずどこかでサチレート、飽和状態になります。それを乗り越えるのは構造の変革なり新しい手法なりを取り入れなければいけません。それは壁を乗り越えるとか殻を破るというような表現をされるものです。壁を乗り越えるには今まで通りの力では足りないため、力を溜めたり繰り返し挑戦したりという停滞期間が必要になります。少し下がって助走を付けるのも効果的でしょう。そう、壁を乗り越えるには昨日の自分よりも前にいる必要は無く、踏ん張ったり少し下がることも必要なのです。だからこそ「今回は前回よりもよく出来ているだろうか」に囚われる必要はありません。

 構造変革や新手法のためにはむしろ失敗、駄作も必要です。前回までと同じようにやれば同じような結果になるはずであり、失敗や駄作は今まで通りをやらなかったからこその結果です。それはつまり挑戦の結果でもあり、壁を乗り越えるために必要なことなのです。

最後に

 こんな説教臭くて当たり前の話をしているこの記事はまず間違いなく駄作記事です。こういう記事を世に出すことこそがプレッシャーを打ち消す最適な方法なのです。さあ、皆さん、もっと気兼ねなく失敗してみましょう。