先日の帰宅中、同じ方向へ歩いている小さなお子さん連れのお母さんが約2分の間で5回くらい「お勉強しないとね」と言っていました。
その辺りについてちょいと余計な思索をしてみます。
強制性の難しさ
勉強を強制しても子どもの成績は伸びない、強制ではなく自主的に勉強するよう仕向けるべきだ、とは昔からよく言われています。まあ他人の好奇心をマネジメントすることは勉強をコントロールすることよりも遥かに難易度が高いことですので、どこのご家庭でも容易にできるような話ではありませんが。
そもそも目的を持って大人が集まった営利団体ですらそれができていない組織は多数あります。大人だって子どもと同じで強制的に仕事をやらされるよりも自主的に仕事をやらせたほうが結果的に良い成果をもたらしますが、そこそこちゃんとした組織でしっかりと学び経験を積んだマネージャーでなければ部下を自主的に動かすことは難しいものです。能力の高くないマネージャーは部下に自主性を持たせず仕事や献身を強制することで管理しています。
営利団体である企業ですらそのレベルですので、一般家庭で高度なマネジメントが実施されることを期待するのは少し無理がありそうです。
よってそもそも子どもに勉強を強制する親を批判してもあまり効果的ではないかと思います。
管理レベルとしてはマネジメント(管理)>コントロール(支配)>ネグレクト(放棄)であり、強制によるコントロールは次善の策とまでは言い過ぎですが最悪ではないためです。
子どもへの強制を頭ごなしに否定することは「貴方の子育ては100点でないのだからダメだ」と言っているようなものです。子どもにも同じことが言えるかと考えれば、それこそ教育として不適切な評価でしょう。
また、強制が100点でないとしても、強制それそのものが必ず問題になるわけではありません。幼稚園児が自主的に包丁を手に取ったからといってその禁止を強制しない親はおらず、それは全くもって問題ではないでしょう。
強制は時に有効な場合もある以上、その手札を濫用しなければいいだけの話です。
世の中には0と1でデジタル的に「問題があるものは無くしてしまえばいい」と考える方もいらっしゃるとは思いますが、それは炎や刃物のような「適切に扱えば有益である危険なもの」まで捨て去ってしまうだけであり、それでは発展も成長も捨て去ることと同義です。
もっと言えば、それこそ自主性を育むための強制だって存在し得ます。子どもにとって必要なものはその時々と個性によって変わるのですから、それぞれのその時々に応じてやり方を変えればいいだけの話かと思います。
結言
余計な思索ではありましたがまあ一番言いたいのは、大人の社会だって個々人の自主性を生かし切れていないのですから、まずは私たち大人が範を示すべきではなかろうかということです。大人が出来ていないことを子どもにやらせようとするのは、無理筋ではないでしょうか。