忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

50音しかないのに個性が出るのだから文章は凄い

 平日は朝と夜、可能であれば昼休みや職場の休憩時間にパソコンかスマホで人様のブログを読ませていただいています。読みたいブログがたくさんあり気付けば読者登録数が凄いことになっていますので、最近は見落としている記事があるかもしれません。仕事が忙しい時はなかなか・・・

 ブログの読み方はシンプルです。おもむろに購読リストを押し、パソコンの時は延々とスクロール、次のページ、スクロール、次のページ、スクロールと繰り返して読み終えたところまでを探した後、トントントンと未読のページをタブで開いて次々と読み漁ります。スマホの時ははてなのアプリから購読リストを押し、未読の記事まで指紋が無くなる勢いでスワイプしてから順次読みます。

文章の個性

 パソコンの時はヘッダーの部分でどなたのブログかがすぐ分かるのですが、レスポンシブデザインに対応していないテーマをご使用の方もいるためスマホではパッと見で分からない時もあります。

 しかし凄いと思うのは、一文目を読んだあたりでどなたのブログの記事かが判別できるのです。もちろんイラストや漫画を投稿している方や最初に定型文として挨拶をしている方の記事はイッパツですが、私のブログのように定型の書き出しが無い方の記事でも読めば分かります。

 私も何か定型の書き出しをすべきかな・・・まあそれはおいおい考えるとして、これはなかなかに凄いことだと思うのです。日本語は50音、ひらがなカタカナ漢字に記号と表記自体は様々ありますが、映像や動画に比べて圧倒的に視覚情報が少ない”文章”という形態においても人の個性というのは如実に表れるということなのですから。

 当然ながら私が読んでいるブログは私が読みたいと思って読者登録していますので傾向もある程度似通っており、話題としている内容も近似していることが多々あります。そもそも時事的な話はテーマが丸かぶりとなります。それでも、例え同じテーマを取り扱っていても異なる表現や個性的な視点が現れているために文章だけでどなたが書いているか容易に識別ができています。個性というのは滲み出るものなんだと実感するばかりです。

 仕事においてもこれは感じます。私は技術屋なので頻繁にメールや試験レポートを読むのですが、同じ事実について語る時ですら表現方法は人それぞれであり実に個性を感じます。まあとりあえず試験レポートで情緒的かつ定性的な文章を見かけたら素敵な個性と思いつつ添削しますけども。理工屋はレポートを定量的に書いてくださいお願いします。「圧倒的な耐久性能を誇る」と言われても困るので、何回とか何年とか数値を明確に書いてくださいまし。

 個人的に最近面白かったのは、売上目標に到達しているかどうかの営業月報を読んでいた時です。「今月は残念ながら目標値に届かなかった」と書く人と、「目標値に到達する勢いで受注が来ている」と書く人がいました。どっちも売上目標に到達していないという報告なのに、後者はまるで絶好調な風を醸し出しています。到達する勢いて・・・結局届いてないんかい!と一人ツッコんでしまいましたよ。ホント、書き方一つだなと。

何事も料理に例えることができる

 月並みな例えですが料理と文章は似ていますね。同じ食材を使っていても料理のやり方によってまったく異なる結果に辿り着くように、文章も同様に同じテーマを語っていても表現や到達点はまったく異なることになるのです。

 たとえ私が一流シェフの食材と道具を使ったとしても食べられたもんじゃない料理?が完成?するだけでしょう。"料理のような何か"が"出現"すると言ったほうが適切かもしれません。いえ、まあ、料理が出来ないわけではないのですよ?むしろ個性的と言ってもいいでしょう、ドヤァ。美味しい物を食べたい時は外食するくらいの実力です。凄い。いや、何も凄くない。凄いのは話の逸れ方です、今なんの話をしているんだったか。

個性は滲み出る

 以前も書きましたが、個性は抑え込んでも抑えきれずに滲み出てくるものです。むしろ抑えているのに染み出してくるものこそが個性です。

 誰しも若い頃には個性で悩むと思いますが、そんなことは心配する必要が無いのです。誰しも個性があります。むしろ歳を取って社会に出たら勝手に滲み出してきやがる個性に振り回されないよう努力が必要になるくらいです。今その個性いらないから!という状況のほうがむしろ頻発します。まあ若いうちは自身の個性を認識できていないので模索するのは仕方がないとはいえ、心配することは何も無いのです。

余談

 個性的でありたいという若者はむしろ没個性的な気がします。だって若いうちは皆そう思っているわけですし?あるようでない、ないようである。個性とはなんとも難しいものですね。