忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

一人称の使い分けに関する自己分析

 私は私を私と書きます。私は私を私と書くのが良いと思っているからです。早口言葉かな。

 意識的にせよ無意識的にせよ誰しも一人称を使い分けていると思います。私は無意味なほど積極的に使い分ける派です。演劇部に昔所属していた影響でしょうか、時々に必要なキャラ付けに応じて一人称も変えています。

 とはいえ積極的な割には半分くらい無意識で変えているので、ちょっと使い分けているシチュエーションを整理してみましょう。誰の役にも立たない情報ですけどなんとなく書きたくなったのだから仕方がないです。ゴーイングマイウェイが信条です。我が道を往くのです。我という一人称は普段使わないですけど。

 は顧客とのやり取りやネット上への投稿などパブリックな状況や空間においてはを用いています。どの程度フォーマルな状況かによって口頭ではわたしわたくしを使い分けることもありますが、文章上では漢字ので統一しています。

 もっともオーソドックスであり年齢や性別を問わずに使えることが理由です。意見を表明する際に個人の属性を覆い隠し先入観を減らす効果を見込んでいます。を用いるのはパブリックな状況下において「誰が言っているか」ではなく「何を言っているか」を見てもらいたい時です。

 を用いるのは「誰が言っているか」を強調したい時ですね。を使う時とは違い「はこう思うんだよなー」と自らの主張であることを明確にする時に使います。ソトに対してではなくウチにおいて自己主張する時に用いることが多いですね。特に技術的な事柄に関する議論ではどのように考えたかという個人の見解が重視されることもあって、という一人称を個人の見解であることを強調するために用いるんです。目上の人にも使える一人称なので社内の会議や上司への報告などでは大体で通していますね。後輩に指導したり家族と議論したりと少し硬い話をする時もが多いかな。つまりはウチの環境における自己主張をする時ということですね。

自分

 自分は故意に堅苦しく意見を述べる際には自分を一人称として用いることがあります。特に目上の方や集団と討議する際に用いることが多くあります。決してフォーマルな雰囲気では使わず、むしろカジュアルな状況において時々使用しております。一人称を変えることで多少の皮肉と諧謔を含ませる意図を自分は持っております。

 ともすれば嫌味となりかねないため使用頻度自体は控えめでありますが、悪魔の代弁者が必要だと思われる状況にあえて正論を提供するために用いるのであります。の真意ではないけどもこの観点からの意見は必要だ、という状況下に自分という別のペルソナを用いているわけでございます。やはり嫌味ったらしい気がするのであります、自分は性格が悪いのであります。

 俺を使って話すのは親しい相手と対面で話す時だけだなー、少なくともパブリックな状況じゃ使わねえなぁ。だってさ、って一人称、なんかガキ臭いじゃん?しかもちょっと威圧的だしよー。なんか使うの恥ずかしいんだよな。

 だから家族や友達、あとは会社の同期とか一部の同僚くらいにしか使わねぇや。いまさら恥ずかしいもクソもないような関係のやつにだけだな、って言うのは。まあ、なんつうか、甘えてるんだろうな。けどいいじゃんか、気楽に話す間柄であんまり気を遣うのもなんかアレだろ?気の置けないって言葉もあるしさ、許し合えるならオーケーオーケー。

拙者・小生・おいら

 口頭では使いませんがたまにメールで用います。もちろん会社内、かつ若手に対してふざける時だけです。なぜ仕事中にふざける必要があるんでしょうね?

 「常々御気遣いを頂戴しており拙者忝く申し上げ奉り候」とかでメールを書き始めたりします、いつもお世話になっております的テンプレばっかりじゃ飽きちゃうので。ふざけすぎですね。

 なんか凄い真面目に仕事をしている若手をからかう時に使います、小生の距離感の取り方が下手なのだとは思いますが、「ほら、こっちはふざけてるからそんなに気張らんでもええで?」とよく分からないアピールをしているつもりです。軽い子は乗ってくれますがクソ真面目タイプからは白い目であしらわれます、拙者寂しい。おいら怖い先輩じゃないよ。

余談

 日本語は一人称が多いので面倒な反面、キャラクターを表現するにはとても良い記号だと思います。は若さを表し、は老練を示す、というように一人称を使い分けるだけで異なる人格であることを明確に示すことができます。まあ個人があまり使い分けるとややこしくなる気もしますが、便利なので有効活用していきたいものです。

 歳を取っておじいちゃんになったら絶対って使う予定です。もう決めています。なんかかっこいいので。「は今日お昼ご飯を食べたかのぉ?」とか言うんだ、以外は今でも言ってるけど。