時々「心無い誹謗中傷」という表現を見かけるのですが、「心ある誹謗中傷」というのはあるのでしょうか?ふと疑問に思いました。
そんなわけで、今回は批判と批難、誹謗中傷について取り上げます。入りが強引過ぎる。
言葉の意味
「批判」「批難(非難)」「誹謗中傷」はよく混同されて用いられる言葉です。まずは言葉の定義から明確にしましょう。辞書的ですが、これらの言葉には次のような違いがあります。
[批判]
物事に検討を加えて、判定・評価すること
人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること
[批難]
人の欠点や過失などを取り上げて責めること
[誹謗中傷]
根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること
批判は物事の判定・評価をすることですが、検討を加えてであったり正すべきであるというような意味合いを含んだものです。つまり建設的な評価や指摘のみを批判と言います。
批難は誤りや欠点を取り上げるという点では批判に似た言葉ですが、責めることという意味合いが含まれています。つまり相手を責め立てるような表現や言葉遣い、ニュアンスを含んだ時点でそれは批判ではなくなり、批難に変わります。また批難には建設的な評価や指摘が含まれていないことも注意が必要です。
誹謗中傷は批難よりも悪いもので、根拠の無い罵言によって相手を責め立て傷つけることを意味します。誤りや欠点の建設的な指摘を含まないことから、批判と誹謗中傷は似ても似つかないまったく異なる言葉です。
誹謗中傷は悪口によって相手を傷つける意図を持ったものであり、心ある誹謗中傷なんて存在しません。全て心無いものです。
以上より、批判とは根拠があり、相手を責めずに建設的な評価や指摘を行うことと定義できます。それ以外は全て批難や誹謗中傷の類です。味噌もくそも一緒にするようなことはすべきではなく、批判は建設的であることから活発に行い、批難や誹謗中傷は個人の権利や公共の利益に資するものではないため使わないことが望ましいです。
批判は難しい
具体的なことを考えてみましょう。
まず相手を罵るような言葉や攻撃するような表現を用いた時点でそれは批判ではなくなります。誤りの指摘だとしても強い言葉を使うことは適していません。
物事や言動、仕事に対しての評価や指摘が批判であることから、相手の性格や人格を対象とするのも誤りです。
ただ誤りを指摘するのではなく、建設的でなければいけません。誤りの根拠を提示して正す方向を示すものが批判です。間違えていることを伝達するだけのものは批判ではありません。
つまり正しく批判するというのはなんとも難しいものだということです。正しい批判をするためには批判対象となる物事の誤りを見つけるだけでなく、より良く正すことが出来るだけの見識が必要なのです。
批判には価値がある
批判は難しいものですがそれを行うことには大きな価値があります。人が考えることができる範囲には必ず限度があり、多人数で考えたほうがより優れたことを成し得るからです。
私の勤める製造業では効率的に批判を行ってより高い価値を作り出すために、デザインレビューやワイガヤというような「皆で討議し、議論し、批判する手法」を使っています。ことわざで言えば三人寄れば文殊の知恵ですね。もちろん集団浅慮や群集心理に陥らないよう注意が必要ではありますが、思いがけない視点の意見をいただいたり、より優れたアイデアを提供してもらったりすることができますので、設計者としては批判をもらえると大変助かります。
「この形状は強度を上げるためだというのは分かるのですが、異種金属の接合が必要になるので工程が増えてしまいます。これは一体型にしてプレスに出来ないでしょうか。類似形状であれば少しコストは上がりますが加工できるサプライヤーがあります。コスト増分は工程を減らせる分でペイできると思うのですが、機能面ではどうでしょう?」
これは批判の姿勢として正しいあり方です。
「なんだこの形状、これ成形するのにいくら掛かると思ってんだボケ!おい、ホワイトボードに描いてやる、いいか、この部分をこういう形状にすれば機能を損なわずにゲートの位置をここに出来るだろ?そうすりゃ追加工がいらねえんだよ。設計だったら射出成型の基本くらい勉強しろアホが」
・・・批判と批難の合わせ技も、まあ、時には・・・アリ、かなぁ。新人の頃に色々教わったので私個人としてはおっかない職人気質のおっちゃんは好きなタイプですけども・・・うーん。現代社会にはちょっと合わないですね。
結語
正しく批判することは難しく、相当に気を使わないと批難や誹謗中傷になりかねないものです。批判をする際は意識して注意する必要があります。
しかし批判は必要なものですのでむやみに忌避すべきでもありません。あらゆる物事や学問といった人の作り上げてきたものは誰かが作り出したものを別の誰かが批判して改善したからこそ発展してきたものであり、正しく批判し、それを謙虚に受け入れることが必要です。