忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

共感の特性差と強度に関する考察

 日本語における共感は「他者と感情を共有すること」を意味します。厳密に言えば共感とは感情そのものを共有しているのではなく、自らの持つ感情が他者の感情によって影響を受けることによって引き起こされるものであり、必ずしも一緒の感情を持つことではありません。例えば他者に傷つけられて涙を流す人を見て、同じように悲しみを共有することも、傷つけた他者に怒りを覚えることも、どちらも他者の影響によって自身の感情が影響を受けていることから共感と呼ばれます。

 共感は英語ではSympathyEmpathyに分かれて表現されています。より受動的な「共鳴」がSympathy、より能動的な「感情移入」がEmpathyです。Sympathyは前述したような他者の感情と異なっていることが起こり得るのに対して、Empathyは積極的に他者と同一の感情を共有することを意味します。

 共感は機能性によっても分類されています。「他者の心の状態を推論して理解する」機能を認知的共感、「理解した感情に対して身体的反応を伴って同期する」機能を情動的共感と呼びます。

 認知的共感は制御可能な性質を持っています。例えば人が殴られているとして、それを見た人には同じように痛みを覚えたり、殴っている人に対して攻撃的な気持ちになったりするSympathyが働きます。しかし殴られている人がその前に別の人を散々殴っていたり極悪人であったりと倫理的に不適切な人であれば、異なる認知によって共感性は低下することになります。このように認知次第で共感の度合いを可変出来るのが認知的共感です。対して情動的共感は任意に制御することが難しく、ほぼ自動的に発動するものです。震災や戦争などを直接的・間接的に見ることで不安障害や急性ストレス障害が発症するのは制御不可能な情動的共感の暴走によるものとなります。

 

共感の男女差に関する見解

 脳科学・心理学によって男女には共感性に有意差があることが分かっています。またそれとは別に「男女での区分はナンセンスであり、個体差のほうが影響が大きい」という見解もあります。

 時に論争となるこれらの見解は実際のところ相反するものではなく、「性差で傾向があること」と「個体差が大きいこと」は同時に成り立ちます。つまり0-1のデジタル的な群になっているわけではなく、平均値の異なるガウス分布になっているということです。

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(こういう差があるわけではなく)

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(こういう分布になっている)

 前者のような誤解は偏見をもたらすため気を付けなければいけません。男性の共感性が平均として低いことは統計的事実ではありますが、だからといって「男性であるアナタは共感性が足りない」というような演繹的推論を行うのは正しくありません。共感性が低いことに統計的有意差があることとその男性個人の共感性がどの程度あるかは直接関係が無い情報であり、同一視するのは論理的誤謬です。同様に「女性であるアナタは共感を求めている」と押し付けるような考えも誤りです。

 簡単に言えば、傾向に差があることは事実だが決め付けるのは良くない、という単純な話です。

 

共感性の強度に関する見解

 学術論文では無いので引用論文等の記述の手間を省かせてもらいますが、共感性の研究結果では視点取得(認知的共感)のみ性差が見られず、それ以外の感情共有や同情といった情動的共感は女性が高い数値を示すことが分かっています。但し年齢によって数値やパス解析結果が変わることから具体的にどのような共感性がどう高いかを明確に判断するのは難しいものです。

 現時点で性差があることの科学的データはありますが、なぜ性差があるかについてはまだ原理が分かっていません。脳なのか、それとも環境なのか、今なお研究が続けられています。よってこの差をどう解釈するかは今のところは人それぞれです。

 ただ言いたいこととしては、原理がまだ分からない以上”差がある”までで話は留めておいて、その差があることの是非や善悪は問わないほうが良いかと思います。解釈そのものは学問的探究としてあるべき姿ですが、それぞれの解釈を押し付けあうのは学問的姿勢としては望ましくないですし、社会的分断や摩擦を生じかねないものですので。

 

 

余談

 個人差が大きいから性差で決め付けるべきではないと言っておきながらあれですが、私自身は共感よりも解決を求める思考です。「男は共感ではなく解決策を求める」を地で行っています。

 過去にも記事に書いたように、私は感情の許容量があまり大きいほうではないのです。情動的共感を強く感じるとメンタルが大変なことになる自信があります。

 そのため、制御可能な範囲である認知的共感を検出した時点で、情動的共感に至らないようスイッチを切り替えるようにしています。感情ではなく論理に話をすり替えることでヘナチョコなメンタルを守っているわけです。

 当ブログでは何度かロシアとウクライナの戦争について取り上げていますが、私自身は戦闘や被害の動画をほとんど見ていません。精々が写真で、それすらも見たら生活に支障が出かねないためなるべく避けて、文字ニュースのみで情報収集するように留めています。現地の具体的な状況の話ではなくマクロ視点での解決的分析ばかりしているのはそんな理由です。

 これを「男性だから現地の人への共感性が足りない」と捉えるか「共感性が高いから急性ストレス障害にならないよう予防処置をしている」と捉えるかはまあ自分の中だけの話ではあります。外から見たら共感ではなく解決策を求めているように見えることには変わりありませんし。

 ただ、言い訳がましい話ですが、男性は共感性が低いという事実の裏には、共感に耐えられるほど強い心を持っていないから避けている場合もあるのではないか、という視点を提供したく、こんな余談を書いてみました。なんにせよかっこいい話ではありませんけど。