魔女の一撃による腰痛でずっと寝転がっていたため情報のインプットが不足しており、何も書くことが思いつきません。何故かろくにやった事もない魚釣りの情報と恐らく使う機会のない山でのサバイバル方法に関する知識を仕入れていましたが、人様に語るほどの知見は得られませんでした。手当り次第なんでもかんでも情報に触れるのも、それが趣味とはいえ限度というものがありますね。
そんなわけで書き始めたら何かに辿り着くかもしれないと信じて適当に書き進めてみます。
ブログとの付き合い方
朝の七時過ぎ、勤務開始前、自身の記事を投稿した後、一日の始まりに人様のブログを巡っています。いまだ寝惚けた頭を叩き起こすためのリフレッシュタイムであり、地に足のついた巡回というよりはむしろ水中を泳ぐような回遊に近い感覚です。時間に余裕が残れば自身の記事を書いたり定期巡回しているwebメディアやニュースを読みますが、この一年弱はブログ巡回を最優先事項としています。
昨夜遅くから朝に掛けて投稿されている記事は社会人の方によるものが多いように感じます。ビジネス・メンタル・仕事術・社会動向の傾向が強く、またその他の記事も目線は社会人としての傾向が強いです。
もちろん他の傾向を持つ記事も多数ありますが、それはむしろ清涼剤として好ましく思っています。非意図的に異なる情報を受け取ることによって意識が様々に変転し、それにより脳が徐々に目覚めていくことから、一連の回遊は仕事脳へ頭を切り替えるための習慣、ある種のイニシエーションと言えるかもしれません。仕事に関連する情報ではなくブログを優先して回遊しているのはそんな理由です。
夜の九時過ぎ、最近は少し遅いですがともかく寝る前、帰宅後のルーチンをこなした後、一日の終りに人様のブログを巡ります。肉体的な疲労はさほどでもありませんが、腐っても頭脳労働者である以上頭は疲労しています。しかしながら、個人的な習慣としていくつかのテーマを睡眠前に脳へ設定しておかないと余計な考えが膨らんで睡眠導入に支障を来たすため、ブログの巡回はネタの仕込みとしても活用している次第です。考えを休めるという器用なことが出来ないためちょうどいいとも言えますし、寝ながら考えたことは翌日以降の学習やその結果としての記事作成に大変役立つとも言えます。
昼や夜に投稿されている記事は学生や自営業、家庭に居る方の記事が多く、思いもしなかった視点、触れることの無かった情報、鋭い切り口でざっくりと世相を斬るものもあれば日々を優しく切り取って大切に保管しているものもあり、実にバラエティに富んでいます。
私の職場はエンジニアのおっさん天国であり、多様性というものが存在しません。そこに浸かること自体は決して悪しきことではないのですが、それによって考えが凝り固まることは恐れており、別意見を得る機会としてのブログ巡回を大変価値あるものとして捉えています。
ブログに触れるという習慣を日々に役立てているという点で、上手いことブログと付き合えているのではないかと愚考する次第です。
優しさと知
むしろ考えが固定化することではなく、無知の無知であることを恐れているのかもしれません。知らないことを知らないことこそが私にとって恐れるべき事態です。
人は知らないことであればどこまでも残酷になり得ます。誰かの必死に苦労している姿を知っていてそれでもなおその人を否定するような言説を弄する人間は、直接的な表現とはなりますがそれは共感性を損なっているサイコパスです。通常の人々は知っている人や物事に対して共感性を発揮します。多くの暴論や乱雑で暴力的な見解というのは多くの人々がサイコパスだからというわけではなく、相手のことを知らないからこそ発することができているのだと考えています。
個別の不祥事を起こした人に対してではなく全般としての官僚批判や公務員批判は良い事例です。彼らが日々何をしているかを知らず、人ではなく「名前の無い巨悪」として乱暴に取り扱うからこそ暴力的な言説を吐くことができるのです。朴訥で、実直で、まじめに仕事をする官僚や公務員を一人でも知っていれば、彼らを名前の無い存在として取り扱うようなことは無く、そのような人々の健気までを一緒くたに否定するようなことはしないで済みます。
人は相手を知らないからこそ相手を攻撃することが出来てしまうという可能性を忘れてはいけないと、そう信じています。
優しい人は皆ことごとく知性を持っていて、無知で優しい人はほとんど存在しないというのが私の信仰です。
もちろん何事にも例外というものはあり、天然生まれつきの知性と温厚さを持つ人も当然存在します。
しかしそうではない人が優しくあるためにはとにかくひたすら学ぶ必要があると思っています。私のような凡人が穏やかで思いやりがある人になるには膨大な知識が不可欠であり、無知こそが暴力の根源、無知からの脱却と教養の力こそが温厚で平和な世情を作り得る唯一の術だと信じています。
もちろんこれは個人的な信仰であり人に押し付けるようなものではありませんし、そもそも無知であることを攻めたいわけでもありません。私がただ個人的に優しい人でありたいと思っているだけです。そのための手段として学びが必要だと考えている、それだけの話です。
しかしながら、何らかに対して怒りを覚えた際、その対象の事を充分に理解しているかを考えるとそもそもただ単純に知らない場合が多いのではないかと考える次第です。
余談
Aという話をしているとすぐに脱線してBという話を始める。悪い癖が全力で発現してしまいました。やっぱりもう少し構成やオチを考えてから書き始めたほうがよさそうです。