「それは内部統制の関連規程〇〇〇にあるように、こちらではなくあちらの部署に依頼する内容ですので、そちらに話を通してから来てください」
「社内技術規格△△△より、それを実施するにはあちらの部署の上長から承認をもらう必要がありますので、私に言われても困ります」
「この書類は書式を間違えていますし、承認印が不足しています。本業務に関連する業務標準□□□の様式5で書き直してから再度回覧してください」
職場で時々「ルールにうるさい真面目な奴」という扱いを受けることがあります。
これは大いなる誤解です。私ほどルールをないがしろに扱っている人間はそうそういません。誇ることではないですが、なぜか自信満々に断言します。
今回はルールに関する私見を述べていきます。
ルールを熟知する意味
確かに私はルールを熟知するよう努めています。社内の規程規格類は経理や総務、営業や品質など垣根無しに一通り目を通して覚えていますし、自身の業務に関連する法規制や国際規格、業界規格や地域の条例も詳しいと言える程度には知っています。
しかしそれはルールを重要なものと崇め奉っているからではありません。
むしろそれとは正反対で、どの部分でルールを逸脱できるか、どうすればルールの軛を逃れることができるか、如何にしてルールを活用して人々が利得を得られるか、といったことを考えているからです。
「ルールが主で人が従」というような殊勝な発想は皆無であり、もう明々白々に「人が主でルールが従」です。ルールが人を定めるのではなく人がルールを定めるのであり、ルールは聖典や経典ではなく人に奉仕すべきツールである、というのが信条です。
つまり、ルールに道具的価値以外を認めていないからこそルールを熟知するようにしています。道具に詳しくない職人なんて存在しないのです。
時々言われるのが「ルールが重要ではなく、人や成果が重要だ」という言葉です。それには大変同意なのですが、その先がちょっと違います。
「だからルールを守らなくてもいい」
ではなく
「だからルールの範囲内で上手く立ち回り、上手いこと逸脱しよう」
というのが私の考えです。投げ捨てるのではなく、上手く使いこなすことこそが肝要だと考えます。
やるべきはルールの逸脱ではなくルールの改変
ルール通りにエビデンスを残さないと後々の監査等で書類の不備を指摘されててんやわんやとなります。
ルール通りに承認ルートを通さなければ後々に「そんな話は聞いてねえ」と余計な抵抗感を発生させてしまい仕事の手戻りが発生します。
安易なルール破りはコンプライアンス違反や法規制への不適合を起こし、後々に信用の損失や金銭的損失を引き起こします。
そういった長期の目線で考えると、ルールを逸脱して物事を進めるよりもルールを守って物事を進めるほうが人に掛かる負担が少なく効率的ではないでしょうか。
それはまあ、確かにおかしなルールというものは存在します。なぜそれをやる意味があるのかさっぱり分からないようなやつです。無駄の極みのような謎ルールというものは間違いなく存在します。
ただ、それをどうにかしたいのであれば、「無視して破る」という選択肢よりは「ルールに基づいてルールを変える」道を選ぶべきでしょう。そうすれば後々に余計な禍根を生まずスマートに物事を進めることができるのですから。
体育会系にはむしろ分かりやすい
「よし、ライトの頭を飛び越えたぞ!三塁打だ!」
「いちいち二塁を踏むのなんて面倒だし、一塁を踏んだら三塁に向かおう」
「それは駄目だ!二塁を踏まないで三塁を踏んだら反則だ!」
「二塁を踏むのは距離が長いし非効率的だよ、それよりも直接三塁に向かったほうが走る距離は短くて済むし時間も短縮できるさ」
「そんな反則を許したらゲームにならないだろ!」
明確なルールに基づいて勝敗を競い合うスポーツを経験してきた体育会系の人ならば分かりやすいと思いますが、プレイヤーは誰しもルールを学び、ルールを守り、ルールに従って競い合います。
なぜそんなことをするかと言えばそれはゲームを成り立たせるという共通目的があるからであり、ルールが好きだからではないでしょう?
私がルールを道具的に扱いつつもルール通りに行動するのはこれと同じで、ルールが好きで真面目な人間だからルールを守るのではなく、物事を成り立たせるために必要だからルールを守るのです。
さらに言えばゲームを成り立たせつつも不真面目に立ち回るためにルールを守っています。ルールが好きな真面目人間というわけではないのです。
結言
ルールを破るということはゲームを壊すが如き行為であり、だからこそ戒められるべきものです。ルールを守らずに目先の効率や合理性を重視した企業や組織、集団や個人がどうなるかは・・・昨今のニュースを見ていればその結末が分かるかと思います。