忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

他者の言葉には常に意味がある

 この世には様々な格言・名言・金言・箴言があります。それらの多くは有用であり、そこから何かしらを学び取ることは極めて有益です。時間の試練を乗り越え諸人の篩にかけられた数々の言葉はまさに砂金の如き価値を持ちます。

 ではそういった言葉のみを拾い上げればいいか、俗世に流布する衆生の言葉は不要な雑音として排除すべきか。

 それもまた極端であり、望ましくないと私は考えます。たとえ金言・箴言でないとしても、他者の言葉は常に何かしらの意味を持つものです。

 

相対性

 まず、如何な金言・箴言と言えども、用いるべきでない時や場合があり、人によっては有害となることもあり、あらゆる時間にあらゆる状況であらゆる人に適用されるような万能性を持つわけではありません。どれだけ優れた言葉であっても、それを自らに取り入れるか、そして如何に用いるかの選択は不可欠です。

 その選択には無数の言葉を取り入れて自らの篩にかける判断、すなわち自らにとっての黄金を探す行為が必要になります。

 

 黄金を得るために必要なことは、つるはしを振るって鉱石を掘り進めること、川底を浚って砂礫を抄うことです。無益に思える石を掘り進め、徒労に思える砂をかき集めた果てに初めて黄金を獲得することができます。

 その途上にある石や砂をただ無駄だからと無視して黄金のみを探し求める行為は、あたかも鉱脈をただ眺めて金脈を探すようなもの、もしくは砂金を掘るにあたって川をただ眺めているようなものであり、類まれな幸運に恵まれなければ意味ある黄金を得ることは叶わないでしょう。

 また、価値とは常に相対的なものであり、黄金はそれ単独では黄金足り得ません。銀があり、銅があり、鉄があり、石や砂があるからこその黄金です。砂をふるい、石をかき分け、鉄を眺め、銅を学び、銀を知る。そうした相対的に異なるものと比較して初めて黄金を得たことを理解できます。

 

 これは言葉でも同様です。

 人は無数の言葉を拾い集めることで初めて自身にとっての価値ある金言を得ることができます。そしてその過程にある様々な言葉は金言を得るために必要な、意味のあるものです。異なるものを拾い集め学び取る苦労をしたものだけに黄金の価値は分かるのであり、その努力をしない者は、路上に転がっている言葉を見つけたとて、たとえそれがどれだけ素晴らしいものだとしてもその価値に気付くことはないでしょう。

 

不完全性の自覚

 さらに言えば、言葉の価値は前述したように相対的です。時にそれが黄金となり、時にはそれが石となります。

 それを容易に判別できると考えるのは傲慢というものでしょう。人は誰しも未来を知る事はできないものであり、その言葉が今後黄金になり得るかを今時点で判別するのは早計に過ぎません。

 たとえそれが石に見えたとしても、ただガレ場に放ってしまうのはいずれ価値ある黄金を捨てることになりかねないと考えます。

 

 もちろん人は日々価値ある何かを見落とし投げ捨て気付かずに過ごしていくものではあります。しかしそのことを自覚しているかどうか、それは恐らく大きな違いです。

 

結言

 費用対効果・時間対効果を考えれば金言・箴言の類のみを学び取り入れるのも一つの選択ではあるでしょう。

 また人には所有できる容量が存在する以上、ありとあらゆる言葉に触れて保管しておくことも現実的ではありません。

 ただ、それでは金言を適切に取り扱う術を学ぶこともできず、金言を識別する技量を身に付けることもできません。やがて価値ある未来の金言を見落とすことにもなるでしょう。

 そのため、他者の言葉をまずは聞く、たとえその後に捨てるとしてもひとたびは受け止める、そういった姿勢を持つことには価値があり、だからこそ他者の言葉には常に意味があると考える次第です。

 

 

余談

 そしてもちろん、悪い言葉を選別して分けるにしてもです。何が悪しきかは悪しきを知らねばならないのですから。「これは薬だ」と言われたとて、水銀を飲むようなことは避けねばなりません。

 だからこそ他者の言葉を無批判に取り入れるのではなく受け止める姿勢が必要だと考えます。