忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「偉い」は意外と難しい

 

 「偉い」の意味は主に二つあります。

 一つは「品行や経歴や才能が立派である、優れている」ことであり、もう一つは「地位や身分が高い」ことです。

 この言葉は非常に矛盾を抱えていると言いますか、実に徳治主義・儒教的な言葉なので、なにか上手いこと意味を分離できないものかと思っています。

 

「偉い」は難しい

 率直な話として、「地位や身分が高い」人が「品行や経歴や才能が立派である、優れている」とは限らないのが現実です。人品や才覚に劣る人でも地位や身分が高くなることはあり得ます。

 世襲は言わずもがなで、どれだけ能力主義やメリトクラシーが支配する社会であっても関係なく、根本的に「地位・身分」「品行・経歴・才能」は相関するものではない以上、それらが同時に揃っていることを期待するほうが間違いです。

 極論ですが、これらを高評価するための言葉が「偉い」に集約されていること自体が問題だとすら言えます。

 

 「偉い」がこのように「地位・身分」と「品行・経歴・才能」のような本来連動するわけではないものを合わせて評価する言葉になったのは、儒教が生んだ徳治主義、すなわち「徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべき」による誤謬が一因かと思われます。

 もちろんこの考え方自体はある意味妥当で、品性に優れた人が統治者となったほうが民衆にとっては望ましいと考えることは自然な発想です。

 

 ただ、この発想から生じた願望は容易に反転します。

 すなわち、「統治者になったのであれば徳を持っている」とした誤認です。

 しかし実際は「経歴」や「能力」で成り上がった人であっても「この地位や身分を得たからにはこの人には徳があり、恐らく品行に優れているに違いない」と考えることは誤りです。そこに相関は決してありません。

 これは残念な誤謬ですが、実際にこのような誤りを抱えている人は多数います。それこそ金銭の不適切な取り扱いや倫理に悖る振る舞いのような統治者の品性に基づく不祥事に対して民衆が大いに怒りを示すように、徳の有無ではなく政策や利得で統治者を選んでいる名目のはずなのに実際には統治者の徳の有無を問題視する発想は今でも多くの人が持っているでしょう。

 

結言

 儒教的な徳治主義を現実世界でやるならばトップに劉邦のようなスタンスが許容される必要があります。ストレートに言いますが、徳があれば無能でも品行が悪くても許す、そういった庶民感覚が必要です。

 それが難しいのであれば、地位や身分に値する能力があれば他は気にしない、或いは品格のみを見て能力の不足には目を瞑る、そういった統治者の欠点を許容する発想が必要です。

 いずれにせよ、全てを備えた人物が地位と身分を得るべきだとした考え方は容易に誤謬を生み出しますし、それは哲人政治であり少なくとも民主主義的には望ましくない考え方となります。

 

 残念ながら常に完璧な人間はそうそう居ませんし、そういった人物を選べるほど私たちは完璧ではありません。私たちは不足を許容して「なにをもって偉いとするか」に対する線引きが必要です。