忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

良い国境、悪い国境

 

 国境。

 日本に住んでいるとあまり意識しないものの一つであり、あまり国境のことについて考えたことが無い人もいるでしょう。

 今回はそんな国境の良し悪しについて考えてみます。

 

国境の種類

 国境には様々な種類があります。代表的なものは政治的国境自然国境、そして幾何学的国境です。

 政治的国境は文化や宗教といった様々な政治的要因に基づいて住み分けるために引かれた国境です。これはヨーロッパの国境をイメージしてもらえばよいでしょう。

 自然国境とは海洋や河川、山脈など自然の障害によって行き来が困難であるため引かれる国境です。分かりやすいのは日本のような島国の国境です。

 幾何学的国境とは緯度や経度などに基づいて人為によって引かれた国境です。これはアフリカの直線的な国境が顕著な例となります。

 

国境の善悪

 国境の善悪について一概に述べることは難しくあるため、個別に述べていきます。

 

 政治的国境は概ね妥当な国境です。

 政治的国境は相当に単純化すれば住み分けのために引かれます。

 社会変化の基本として、集団は規模が大きいほうが安定的であり、社会集団は規模の経済を志向して自然と拡大していきます。ある村とある村が充分に近接しており双方の合意が為されるのであれば合併して町となるようにです。

 そうならずにボーダーが引かれるパターンは、価値観が合わない、宗教観が合わない、そういった日常的な何かが噛み合わず一緒に住めないと判断される場合です。政治的国境は一緒に住むと喧嘩になる人々が喧嘩を避けて安全に住み分けることを目的として引かれており、言うなれば集団間の日常的な争いを避けるための知恵に他なりません。

 もちろん線引きによって一切合切の闘争を避けられるわけではありませんが、少なくとも日常的な衝突を避ける効用が国境には見込めます。

 厳しい現実ですが、線引きをせず全ての人々を一つの集団にまとめることは不可能です。極論、豚を食べることを重視する文化と豚を神聖視して食べない文化の人々はどちらかが文化を捨てない限り一緒に住めません。国境が無ければ一緒になれるのではなく、一緒になれないから国境を引いたと考えるべきです。

 互いの差異を尊重し合い多様性を維持できる点からして、このような国境は意味と価値がある必要なものだと言えるでしょう。

 

 自然国境は再評価が求められる国境です。

 自然の障害によって行き来が困難であった時代であれば妥当な国境であったと言えますが、現代は移動手段が格段に進歩して自然の障害が障害とならなくなりつつあるためです。

 もちろん自然国境の境目は歴史的に行き来が容易でなかったためまったく異なる文化圏を構築している可能性が大ではあります。しかし差異の程度によっては国境の意味を為さない可能性もあり、必要だと判断して引いた政治的国境と比べれば自然国境は現代が乗り越えることを検討すべき国境だと言えるでしょう。

 

 幾何学的国境は概ね不適切な国境です。

 地図上でまっすぐ線を引いて国境を引いたとしても、実際の現地ではそう直線的に文化風習が異なるはずもなく、むしろボーダーで隔てることによって無用な分割を招いてしまっている可能性のほうが高いでしょう。

 すでに引かれてしまっており利権が生じてしまった以上、直ちに国境線を引き直すことは難しくありますが、いずれ解消されなければならない国境だと言えます。

 

結言

 このように国境と一口に言っても様々あり、その性質は異なります。必要な国境もあれば、不要な国境もあります。

 少なくとも全ての国境が善ではありません。国境は時に人々の人権を毀損する悪へと変貌します。幾何学的国境は地域の現実を致命的なまでに無視した暴挙に他なりませんし、独裁的な国家にとって国境とは国民を囲い込むための檻に他ならないでしょう。

 さらに言えば、国境紛争が各地で起きているニュースを見て国境を悪だと認識する人も居るでしょうし、そのために「国境なんて無くてもよい」と考える意見があることは理解できます。

 ただ、国境を全て取り払えば良くなるかと言えば、残念ながらそうではない場合もあることには注意が必要だと考えます。必要だから引かれている国境もあり、ただ国境をむやみやたらと廃止してしまっては国境の持つ善の部分までをも同時に捨て去ることとなるのですから。

 要するに、国境があるから対立や争いが起こると考えることは国境の一側面であり、国境があるから避けられている対立や争いもあると見なすことが妥当です。