忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

MECEの概念自体はそこそこ好き

 

 問題解決プロセスにおけるフレームや手法の中でも私はMECEがどうにも苦手です。「漏れなく・ダブりなく」と訳されるMECEですが、各所の様々な例示を見ても大抵は漏れが生じており、本当にMECEなロジックツリーを作るのは極めて難しいことだと思っています。

 

正気を失った思考

 今年は研修で問題解決プロセスのトレーニングを行うのですが、ふとひらめきました。練習問題を「未だ悟りに至れていないこと」に設定しよう

 現状は「悟れていない」、あるべき姿は「涅槃寂静へ至っていること」、そのギャップが問題です。ギャップ分析なのに定量的でないのは無視します。

 現状を整理して分析するために必要なロジックツリーも三十七道品を羅列しておけばOKです。七科三十七道品は菩提に至るため体系化された修行法なのですから、もう間違いなくMECEです。これはMECEだと釈迦も言っています。(言っていない)

 

 ちなみに釈迦はそんなこと言っていません。これは「MECEだ」なんて当然言っていないのと合わせて、そもそも三十七道品は釈迦の逝去後にまとめられたものなので当人は言っていないことのダブルミーニングです。

 研修の講師に求めるツッコミは「三十七道品は内容がダブりまくってて全然MECEじゃねえじゃねえか」です。要求が高すぎる。

 

 疲れているのでこの手のボケを強行しそうになりますが、たぶん相当に上のほうから相応に怒られると思うのでもう少し無難な社会人らしい課題設定をします、はい。

 

未知に対する無知

 MECEの話をするか仏教の修習の話をするか、どちらの流れを続けようか悩みましたが今回はMECEのほうにしましょう。

 

 MECE自体は悪いどころか必須の思考フレームだとは思います。「漏れなく・ダブりなく」は大切です。

 ただ、問題解決で厳密に使えるフレームかと言えばそうは思えません

 たしかにビジネスプロセスマップを作る時やマーケティング対象を分析する時などはMECEなロジックツリーを作成可能ですし役立つでしょう。業務なり責任の区分なり年齢なり性別なり、母集団が明確であれば厳密に区分したMECEな分析が可能です。

 しかし問題解決の場合は母集団自体が曖昧です。ある種の問題は想定外から生じるものであり、問題が顕在化して初めて判明することだってあります。それこそタコマナローズ橋を建設する時点では誰も自励振動による崩壊をMECEに想定することはできませんでした。

 つまり問題の分析において、その問題に対して様々な知見をもった専門家でなければそもそもMECEな分析などできず、さらには未知の原因を含めれば本当に厳密なMECEだと証明することは著しく難しいものです。本当にMECEだと言えるのは完全に問題を把握し切った状態でなければならず、もはやその時点で分析など不要な状態となります。鶏が先か卵が先かです。

 

 いえ、まあ、別にそこまでの厳密性が求められているわけではないことは分かっているのですが、問題解決手法はこの手の暗黙の了解、「あるべき姿は実際には現状を先に把握して実現可能なポイントを設定しなければならない」とか「現状把握の時点で問題を引き起こしている要素を事前に全てMECEに把握できている」などがあるため、なんともモヤモヤします。ロジカルシンキングのロジカルで無い部分が気になるタイプです。

 

結言

「たしかに実務的にはこの手法をそのまま当てはめることができない場合もある、でもこれは型だから、まずは型を学びましょう」

 以前にロジカルじゃないところに疑問を呈した際の外部講師の反応はこんな感じでした。

 うーん、ロジカルで納得。守破離の型破りはまず型を学んでからです。