「モヤモヤする」時の靄(もや)の色は、個人的に灰色だと思っています。
そんな、グレーなモヤに関する話。
限りなく黒に近いグレー
よく世間では「ホワイト企業」だの「ブラック企業」だのが謳われるが、実際のところ純度100%のホワイト組織もブラック組織もそうそう存在しない。大抵はホワイトな慣習とブラックな慣習が混淆しているもので、組織の健全性はグラデーションであり白黒で単純には割り切れないものだ。
そもそも集団の中ですら比率は斑模様だ。あちらの部署は毎日定時帰り。そちらの部署は遅くまで残業三昧。そんなことはよくある話である。
それらが錯綜している以上、奇麗に線引きすることは難しいし、厳密に線引きするべきではない。100%の白など望むべくもないのだから、僅かな黒をも見逃さないとすれば残るものはほとんど無くなってしまう。ブラックを過剰に擁護するつもりはないが、「水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば則ち徒なし」である。
言ってしまえばブラックとは”甘え”である。
共犯者集団による妥協と忖度、同調圧力と自己犠牲の美化などが組織の違反や不正から目を逸らしているだけであり、構成員がどれだけ組織を"甘やかすか"がバロメータだ。
構成員が組織を甘やかさず、違反や不正があれば直ちに正すよう動くなりその組織から離脱するなりすれば否応なくブラックは排除される。そうならずにブラックな部分が残っている理由は構成員が”甘やかしている”からとしか言えない。
どの程度までのグレーを許容できるかは人それぞれだろうが、まったく甘えが無いのも問題であり、過度な甘えも問題であるため、自らに合った甘さを選ぶことが良いだろう。
「カラスは白いか」と聞くなかれ
私の所属する組織は全般的にホワイトではあるが、若干目に付くところもある。
そして私は甘い人間だ。お人よしであり、仲間意識も人並み以下ではあるが持っている。
そのため、「あばたもえくぼ」とまでは言わないが、一部の粗まで杓子定規に騒ぎ立てることはせず見て見ぬふりをしてしまうだけの”甘さ”があるため、私は私が呑み込める範囲で許容する。
私が呑み込める範囲とは、私が呑もうと思い、私が呑み込めたところまでを意味する。
もっと率直に言えば、「この程度のブラックなことであれば仕方がない、受容しよう」と私が判断するのはいい。
しかし、「この程度のことくらい受容しろ」と組織から求められるのは断じて違う。
私は私が呑みたいと思ったものを呑むのであり、口に流し込まれて呑めと強要されることは好みではない。私が組織を自主的に"甘やかす”のと、組織が私に”甘やかせ”と要求してくることは、天地ほども意味合いが異なる。
真のブラックとは、個別の問題それ自体ではなく、それを呑み込めと構成員の口へ詰め込むことに他ならない。
ブラックの典型は「残業代が出ない」「過重労働」「休みが取れない」だそうだが、言ってしまえば「今は厳しい時期だからな、皆で頑張ってこの苦境を乗り越えるためにも、自己犠牲を払ってでも貢献しよう」と当事者たちが納得しているならばそれ自体は良いことではないが問題とはならない。
しかし組織がその自己犠牲を強要するようであれば大問題だ。グレーどころかベンタブラック以外の何物でもない、真の邪悪である。
結言
最近久しぶりに”甘やかせ”と言われる事案があったので、少し腹が立ちました。
私が納得している範囲は納得しますが、納得しろと強要されるのは好みではありません。