当ブログでは何故かカルトに関する話題を時々取り扱っています。
深い理由があるわけではなく、趣味で宗教を勉強していたために隣接分野として知見を得ていたり、色々と環境の都合から興味があったりするだけです。
さらに言えば、関わりたくないので関わらないためにもカルトのことを知っておこうと思って勉強しています。病気になりたくない人が病気のことを勉強するのと同じです。
今回は少し包括的な内容でカルトの初歩について語っていきましょう。
カルトの定義
カルトという言葉自体が時代によって意味合いを変えてきました。
そのため厳密にカルトを定義することは少し難しいのですが、現代的な意味としては「特定の個人や指導者を熱狂的に崇拝し、信者に精神的・経済的な被害をもたらす集団」と捉えればよいかと思います。
原義のような宗教的な意味合いは必須ではなく、国家や企業、サークルや家族でさえカルト化します。
カルトに対する大きな誤解として「宗教団体がカルト化する」は、実のところ機序が逆で、「カルト化した集団が宗教になる」ことが正解です。カルトが絶対的なリーダーを失った末に組織を変革して民主的で透明性があり説明責任を果たせるようになったものが宗教だと言えます。オウム真理教が元はヨガサークルであったように、あるいは現代のメジャーな宗教がどれもカリスマ的な指導者を失った後に組織再編によって健全化されたようにです。
よって宗教にだけ気を付けていればいいと思い込むのは危険で、カルト集団に気を付けなければなりません。
また、定義が広がったとはいえ安易なカルト認定は危険であることも留意が必要です。カルトは根本的に蔑称であり、政治的な対抗勢力や気に食わない集団をカルトとレッテル貼りする行為は詭弁論法となるためです。それはただの侮蔑や中傷ですし、世間に対するカルトの誤解を助長することにもなります。
特に政治的リーダーとカルトの指導者は類似点が幾つかありますが、政治的リーダーは意見を変えることがある点でカルトと異なります。カルトの指導者は崇拝される無謬の存在を誇示するために自分の意見を変えません。
カルトの特徴
前述したようにカルト自体の定義は難しく、手法も日々変化していることから形態を固定化することはできかねますが、大抵のカルトが持つ典型的な特徴を挙げてみましょう。
【リーダーの崇拝、絶対性・無謬性を持った指導者】
【強迫観念に基づく指導者の権力】
【構成員に対する社会的な孤立の促進と脱退への罪悪感】
【組織運営や財務状況の不透明】
【不当に得た影響力や権力の悪用】
【指導者の権力に対するチェック機能の不在】
カルトには崇拝される指導者が存在します。
専門用語で『マニピュレーター』と呼ばれる指導者は言葉通り「他者を巧みに操る人」として、他者に強迫観念を植え付けて行動や思考をコントロールすることで、他者からの崇拝と、否定や疑問を許さない絶対性と無謬性を獲得します。それらが指導者の権力の源泉です。
強迫観念は重要なワードです。マルチ商法などのように契約や金銭に基づく強要は一部でカルトと共通する部分はあるものの、カルトとは別物とされます。暴力による強要も同様です。
カルトの典型例は「終末論を煽ることによる恐怖」や「病気や不安からの救済」による洗脳ですが、他にも政治的な危機感を利用したりと昨今の手口は多様化していますので、パターンを覚えるよりは強迫観念を活用しているかどうかがカルトの判断基準として有効です。
ちなみに昨今のカルトはリーダーが匿名であったり幻想であったりしても成り立ちます。インターネット上の集合知的な情報を信者が崇拝して強迫観念により行動を支配されていればカルトの要件を満たすため、例えばアメリカのQアノン運動はカルトと見なされています。
強迫観念に突き動かされて指導者を絶対的なものとして崇拝するようになった信者は、カルトへ所属していることによる安心感と、カルトを裏切ることによる恐怖心によって脱退へ罪悪感を覚えるようになります。
同時にカルトの運営者はその強迫観念を強めるために信者の社会的な孤立を促進することも特徴です。隔離された施設へ信者を閉じ込めて家族や友人との関係を断たせるのは典型的なパターンでしょう。他にも連絡手段を取り上げたり人格否定をして社会的なアイデンティティを取り上げたりすることで信者の依存を高めます。
罪悪感は一つのセンサーとして機能します。今自分が所属している集団を抜けようと思った時に罪悪感を覚えるか否か、罪悪感を覚えるようであればその集団はカルト的な特徴を持っている可能性があります。
不透明性もカルトを識別する上で重要なポイントです。
組織運営や財務状況が不明瞭で、強迫観念によって不当に得た影響力や権力が悪用されているかどうかすらチェックできない組織、すなわち指導者に絶対性や無謬性がある集団がカルトとされます。
例えば不当に得た金銭を悪用しているヤクザ組織、運営や財務を公開している宗教団体などは一般的にはカルトではありません。もちろん指導者の絶対的なカリスマを持って支配している場合は別ですが。
カルトへの向き合い方
カルトは洗脳のプロ集団です。
警備サービス会社が泥棒並みに盗み方を学んでいるように、脱洗脳をするならばカルトの洗脳手法について熟知している必要があり、無知な素人が迂闊に近寄っては簡単に絡め捕られてしまいます。
よって近寄らないのが一番です。
家族や知人がカルトに洗脳された場合も、基本的に素人では対処が難しいと認識する必要があります。
家族や知人を助け出そうとカルト集団へ接近して逆に取り込まれてしまった事例は多数ありますし、オウム真理教で死刑となった幹部の一人は友人を助けようとオウム真理教へ近づいた人であることは、カルトへの安易な接近の危険性を示唆していると言えます。
ただ、救い出すことはできなくとも、少なくともカルトに陥ってしまっている当事者に対して批判的な態度は示さないことが適切です。対面やインターネットでの口論は以ての外だと言えます。
洗脳されている人は面と向かって批判されると意固地になって信念を強めてしまいますし、カルト集団は洗脳が解けないように当事者と外部の関係を断ち切ろうと動きます。
つまりカルトの特徴である崇拝・強迫観念・社会的孤立の促進を強めかねません。
面と向かって教義を否定するのではなく、ひたすら話を聞く姿勢を保ち、関係性のチャンネルを維持して社会的孤立を解消し、可能であれば専門家へ依頼することが適切でしょう。
結言
今回一番伝えたいポイントとしては、カルトと宗教の関係性に対する誤解です。
”カルト宗教”と言う言葉があるように、カルト化した宗教も世の中には存在しますが、カルト=宗教ではありません。
むしろカルトはもっと身近な集団にこそ潜んでいます。
強迫観念を植え付けて権力を悪用する支配的な指導者は、宗教団体の指導者なんて象徴的なポジションに限らず、それこそ家庭や企業、部活やサークルの中にも存在しているとした認識が必要です。
そして、所属する集団に対してカルトの疑義が生じた場合は、そこからの脱退に罪悪感が生じるかを考えてみるとよいでしょう。