今回は「幸福とは何か」「どうすれば幸せになれるか」という、誰もが模索してきた古くて新しい問いについて語りたいと思います。
絶対的な答えのある問いではありませんが、幸福を“増やす”ための一つの道を示してみましょう。
無知による限界
「無知は至福(Ignorance is bliss)」「知らぬが仏」といった言葉があります。
たしかに、知らないことで心が重くならずに済むこともあるでしょう。
世界の複雑さや残酷さを知らなければ心は傷つかずに済むかもしれません。
しかし、幸せとは本質的にどのようなものなのかを考えると、無知がもたらす安らぎはあくまで一時的なものに過ぎません。
幸福とはもっと深く、もっと広い場所にあるのではないかと考えます。
幸福とは、心が満たされることです。
無知による安らぎは言うなれば"遮断"であり、それは不幸の流入を防ぐことができるかもしれませんが、心を満たすための幸福すら締め切ってしまいます。
内から生み出す僅かな幸福を頼りに外からもたらされる幸福を拒絶して、どうして心が満たされるでしょうか。これは幸せへと至る道とは言えません。
幸せになる方法
幸福は自らの心が生み出すものと、外からもたらされるものがある、そうした認識を持つことができれば話はとても簡単です。
あっさりと言ってしまえば、幸福を外から“受け取る”こと。
もっと率直に言えば、他者の幸福を自分の幸福として喜ぶこと、これこそが真に心を満たすことに繋がります。
己独りの欲求を果たすことで心を満たす努力は有限で、最大でも己独りのみの幸福しか生み出しません。
対して、誰かの幸福を自らの幸福とできる人は、自分一人の幸福だけでは到達できない領域、より大きな幸福を容易く手に入れることが可能です。たとえ相手が一人であっても、最大で二人分の幸福を感じられるようになるのですから、言わずもがなでしょう。
小さな頭蓋骨の中だけで完結する一人の幸福ではなく、己の外側を幸福にしてそこから幸福を得る、関係性の中で幸福を増幅し合うことこそが幸福の最大化であり幸せへの道と言えます。
では、どうすれば他者の幸福を自らの幸福にできるか。
重要なのは「無知は至福」の真逆、"学び"が必要条件であることです。
もちろん学びは万能ではありません。
学んだからといって、必ずしも他者の幸福を喜べるようになるわけではありません。
しかし、学びによる教養が育まれていなければ絶対に到達できない領域です。
ここでいう「学び」は、学校の成績や学歴の話ではありません。
人間関係、歴史、社会、自分の弱さや他者の痛み、世界の美しさや厳しさ、ありとあらゆる経験・知識・情報が学びであり、それが私たちの心を耕して豊かな土壌を作ります。
柔らかで豊かな心、『自己中心性から抜け出した広い視野と思考の選択性』こそが学びによって培われる教養の本質であり、それは教養の定義からも明確です。教養とは『学問や知識を身につけることによって養われる、心の豊かさ』なのですから。
他者の幸福を理解するには他者の世界を想像する力が必要であり、想像力は学びによって育ちます。さらに学びは自己中心性を相対化することにも繋がり、結果として他者の幸福を自らの幸福とするための土台が整います。
これは、無知は悪であるとした二元論でも、無知が問題であるとした善悪の話でもありません。
自己中心性から抜け出して他者の幸福を理解し、そしてそれを自らの幸福に感じるためには教養が必要条件になる、それだけの話です。
自他境界の理解も教養の仕事
「他者の幸福を喜ぶ」と聞くと、「依存ではないか」「自己犠牲的ではないか」「宗教ではないか」と思う方がいるかもしれません。
しかしこれはそういった話ではなく、強いて言えば"自分の幸福を土台にしたうえでのプラスアルファ"の話です。
自らの幸福は自らで持ち、そのうえで、他者の幸福をも喜ぶことができれば幸福で満たされることができる、そういった構造が不可欠となります。
なにせ、他者の幸福を自らの幸福と喜べる集団において他者を幸福にするためには、自らの心が満たされている必要があるのですから。依存や自己犠牲はむしろ幸福を押し下げる要因ですらあります。
もちろん適切な境界認知、自他境界の区別を理解する力は必要です。自分と他者を明確に線引きできなければ容易に依存や自己犠牲へと堕することは必定と言えます。
そして自他境界を理解する力もまた教養の重要な役割の一つです。
先述したように教養の本質とは知的視野の拡大です。学びを通じて私たちは自分と他者の違いを知り、その違いを尊重するために自他の境界を明確に区分する力を教養は与えてくれます。
結言
私たちはありとあらゆる経験・知識・情報から学びを得ることができます。
そして日々の学びは私たちの心を耕して、他者と幸福を分かち合い、より大きな幸福を得るための力を育ててくれます。