忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

軍事への忌避感はなんとかしたい

「病気のことを色々と調べているけど、病気になりたいの?」

「そんなわけあるかい、健康を守るためには病気について調べなあかんやろ」

 

「戦争のことを色々と調べているけど、戦争になりたいの?」

「そんなわけあるかい、平和を守るためには戦争について調べなあかんやろ」

 

 これは等価だと思うのですが、どうにもご納得いただけないことが多くて寂しい限りです。

 

 健康を維持したい人はそのために不健康に繋がる行動や病気の原因を調べて対策を取ります。

 エンジニアは製品に不良が出ないよう過去の失敗事例や故障モードを調べて対策を取ります。

 同様に、平和を守るためには軍事や戦争について調べてそれらが発動しないように対策を取る、それは普通の営みに思えるのです。

 

軍事に詳しい平和主義者

 日本において8月は過去の戦争に思いをはせる月であり、戦争に関して各種メディアで度々報道されます。

 ただ残念なことに、先の大戦という過ちそのものへの言及は多くされるものの、

「なぜその過ちを招いたか」

「どうすれば次は同じ過ちを繰り返さないで済むか」

という深掘り、具体的な方法論については報道の量が少ないと、そう感じます。

 

 反省や注意といった防止策はヒューマンファクターの観点からすれば確実な効果を期待できるものではありません。むしろ人はどれだけ注意して意識していても必ず過ちを犯します。

 重要なのは人が過ちを犯してもそれが大きな影響とならないよう”歯止め”を利かせることであり、つまりは総合的なシステムの設計が不可欠です。そのためにも過去にどんな理由で戦争が起きて、どう拡大していったか、逆に戦争を回避できた事例はあるか、そういった軍事的観点について知見を深めるのは平和を維持するために必要な思考だと思っています。

 

 つまり、平和主義者こそ軍事に詳しくあるべきだ、というのが私の考えです。

 少し極論に過ぎるかもしれませんが、しかし病気に一番詳しいのは病気を防いだり治したりする人であり、製品の不良に一番詳しいのは不良を防いだり阻止したりするエンジニアであり、同様に、軍事に一番詳しいのは戦争を防ぎたいと思っている平和主義者であっても何もおかしくないと思います。

 

 残念ながら日本では軍事に対して強い忌避感があり、軍事を学ぼうものなら「そんなに軍事が好きなんて、戦争がしたいのか!?」となるような風潮がありますが、これはとてもリスクが大きいのではないかと懸念しています。

 私は病気について何も知らない医者よりも病気に詳しい医者に診断してもらいたいです。同様に、軍事や戦争をさっぱり知らない平和主義者よりも充分に研究して理解している平和主義者のほうを信じます。それこそロバート・ジョン・オーマン教授のような、戦争を研究する平和主義者の言い分こそが説得力を持つと思うからです。

 また極論ではありますが、軍事に詳しい人を「あいつは軍事について調べている、戦争好きだ、きっと戦争を起こしたいに違いない」と排除してしまっては、平和主義者の中に専門家が居なくなってしまいます。それが戦争の抑止に繋がるかと言えば、私にはそうは思えません。

 

 もちろん世の中には人を病気にするために病気を学ぶ悪い人や、戦争をするために軍事を学ぶ悪い人が居ることも事実です。

 ただそれはその人が悪い人であることが問題なのであって、病気を学ぶことや軍事を学ぶこと自体が悪いことであるわけではありません。これを同一視してしまうのはバイアスや錯覚です。

 泥棒は盗み方を学びますが、警備会社も盗み方を学ぶのです

 重要なのは事柄についての理解ではなく、その理解をどう用いるかの目的であって、事柄を学ぶことそのものを否定するのは誤りだと考えます。

 

結言

「戦争は悪いことであり、二度とやってはいけない」

 これには大変同意しています。しかし、だからこそ、ではどうすれば二度とやらなくて済むのだろうかということへの理解を深める必要があると、そう考えています。

 誰だって病気になりたくはありませんが、そう願っているだけでは病気を避けることは出来ません。同様、平和を希求するためには戦争への理解を深めることを、それがたとえ嫌でもやらざるを得ないのです。

 もちろん軍事や戦争というのは野蛮の極致であり、それを好まない人が居ることも重々承知です。よって必ずしも誰もが学ばなければならないわけではありません。

 しかし、少なくとも平和を求めて平和を語る政治家や活動家は、その野蛮と向き合わなければならないと愚考します。