忘れん坊の外部記憶域

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研究に無駄金を払う覚悟:研究のギャンブル性と公共性

 定例記事として毎月のように流れるニュースの一つに研究者の就職難やポスドク問題があります。

 雑に説明すると、大学の博士課程を修了したり海外大学でPh.Dを取得した人が、就職先が無いために低賃金で大学に残ったり、正規雇用ではなく非正規の労働に就かざるを得ない問題です。

 

 この手のニュースが流れると「研究者が不遇な扱いを受けている日本はダメだ、海外では研究者は重宝されている」という風によく言及されますが、まあ当然そんなわけはなく、悲しいかな、世界中どこでも研究者は就職に困るのが常です。嫌な話ですねまったく。

 文部科学省がまとめているデータでは、日本において修士課程から博士課程に進学した人の正規雇用での就職率は6割程度です。実に闇を感じます。

 研究者が優遇されているイメージのあるアメリカでは、Ph.D取得者の4割程度しか正規雇用されていません。日本と同じように闇を感じます。

According data from the National Science Foundation, 80% of Life Science PhDs end up completely unemployed or in low-paying postdoc training positions, which the government does not count as employment.

60% of ALL PhDs end up unemployed or in low-paying postdoc positions.

アメリカ国立科学財団のデータによると、生命科学のPh.D取得者の80%は完全に失業しているか、低賃金のポスドク研修生で終わっている。

Ph.D取得者全体での60%は失業するか低賃金のポスドクになる。

 中国やその他の国でも若手研究者の就職難は大きな課題となっており、研究者仕事無い問題は世界共通の課題と言えます。どの国でも研究者の数を増やすことに躍起になった結果、人が余ってしまい飯が食えなくなっているという状況です。

 

 まあ、雇用率は日本の方が高いのですが、正規雇用での平均年収ではアメリカや中国の方が高いので、どっこいどっこいの良し悪しです。

 大勢が飯を食えるが抜群な才能を伸ばせない日本スタイルと、抜群な才能は伸びるが半数以下しか飯を食えないアメリカスタイル、どちらがいいかと言えば・・・できれば良いとこ取りをしたいものです。皆が飯を食えて、さらに優秀な人は優遇する、そんな環境が理想ではあります。これらがトレードオフな環境であること自体が研究者の悲劇です。

 

なぜ仕事が無いのか、研究が続けられないのか

 なぜ就職できないか、なぜ研究が続けられないかを一言で言ってしまえばお金です。研究はタダではできないどころか莫大な費用が掛かるため、どうしても金づるが必要になります。

 大企業はスポンサーの一つですが、利益団体である企業が無償でお金を出すことはしないため、目先の商売に繋がる研究のみにしかお金を出しません。自社の社員に飯を食わせなければならない以上、金にならなかったり博打のような研究に投資することはどうしても難しいものです。

 また、目先の利益に繋がる研究ということは、博士やPh.Dの専門分野との合致度が重要であり、学士や修士と違ってマッチングの幅が狭くなることも採用しにくい一因となります。

 スタートアップベンチャーであれば事業の機動性が高いため、研究者に合わせて事業を調整するという行動が可能です。しかしこれらの企業は規模が小さく資金力も弱いため、現実的に大勢の研究者を雇うことができません。

 構造的には国家、すなわち税金を投入して研究者に研究してもらうことが望ましいでしょう。しかしこれも課題があります。税金を投入する場合、「俺たちの税金で何やってんだ」という声が必ず出てくることから、研究者はお金の使途や成果を明確にしなければなりません。そして結果が出ずに予算が打ち切られることを恐れ、研究者は近視眼的で必ず成果を出せる研究のみに注力せざるを得なくなります。

 どこからお金が出るにしても、特に長期的な研究を続けるのは難しいということです。

 

とはいえ研究者には研究をしてほしい

 社会・国家・人類、どのような視点においても研究者には極めて大きな価値があります。彼らの英知が社会を向上させ、国家を豊かにし、人類の繁栄に繋がります。だからこそ世界中どの国でも研究者を大切にしなければならないという意識は持っており、社会資本を投資する価値があると信じられているわけです。

 よって私たちがどうすべきかと言えば、無駄金を許容するという意識を持つことだと考えます。

 特に長期的な研究の成果がどう出るかは誰にも分かりません。誰にも未来予知などできないのですから、その研究がいつどのように役に立つか、もしくはまったく役に立たないかさえも今現在の私たちには分かりません。

 そんな役に立つか立たないかも分からない研究に私たちの血税を払う意志、無駄金を払う覚悟を持つことが必要です。

 

 日本学術振興会の科研費に関する文書の最初の部分を引用します。

研究活動の公正性の確保及び適正な研究費の使用について確認・誓約すべき事項

 科研費で研究活動を行うに当たっては、科研費が国民の貴重な税金で賄われていることを十分認識し、科研費を適正かつ効率的に使用するとともに、研究において不正行為を行わないことが求められています。

 科研費が国民の貴重な税金で賄われているという認識を持つことは何も悪いことではないですし、不正行為をしない責任はあります。悪いお金の使い方をしては誰も納得しないでしょう。ただ、税金であることに縛られるのも動きにくいものです。

 

つまり、

納税者「無駄遣いをするな!」

研究者「無駄遣いにならないよう結果が確実に出る小さな研究だけをしよう」

という関係性よりも、

納税者「もう何に使ってもいい、無駄になってもいい、役に立たなくてもいい、報告しなくてもいい、とにかく好きに使ってくれ」

研究者「皆の信頼に応えるため頑張って真剣に研究しよう」

という関係性のほうが、健全で、自由で、良い結果をもたらすような気がします。

 

研究のギャンブル性について

 はっきり言ってしまえば、研究なんてギャンブルです。不確定要素が強いという点で言えば投資や賭博とまったく同じです。たまたま役に立つタンパク質が見つかったり、思いつきの組み合わせが凄い特性を持っていたりするものであって、たまたま買った馬券が当たるかどうか、買った土地の値段が将来上がるかどうか、そういったことと行動的には同じです。懸命な思索と膨大な模索という前提があるにせよ、ギャンブル的性質が強いことに変わりはありません。

 研究の成果が出ずに無駄金が発生するのは事実であり、だからこそその不確定性に忌避感を持つ人がいるのは仕方がないことです。これはお金に関する意識の話であり、なにも無駄遣いが嫌いな人が悪いわけではありません。

 

 ただ、投資や賭博と本質的に違うところが研究にはあります。それはお金を投入して得られる結果が研究者個人に集約するものではないという点です。当たりによっては社会全体に利益をもたらす投資であり、全ての人が受益者になり得ます

 社会や国家が存在するのはそこに所属する人々の幸福に資することが目的である以上、研究への資本投入は公共性の高さという点では子どもへの教育費と同程度に価値があるものです。

 そのため、研究に社会資本を投入することを無駄遣いだとは思わないでいただけると助かります。