忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

他者も、己も、そもそも「許し」は必要ない

 

 フラフラとネットを彷徨っていたら、「他者に対して、許していないのに許そうと頑張り過ぎてはいけない」とした教えを見かけました。

 私とは対極的な教えだったので、ちょっと興味が沸きます。

 

 私は仏教やストア派寄りの哲学を持っているので、そもそも他者を許す行為をあまり理解していません。多少辛辣な切り口とはなりますが、他人様を裁定するほど大層な人間ではございません

 

 今回はちょっと過激な自省・自責の道について語りましょう。

 

許しの構造

 許しとは、他者の振る舞いに苦しみを覚えたとしてもそれを受け入れる寛容の精神であり、表面的には心優しく温かい行為に見えます。

 ただ、他者を[許す/許さない]と考える時点で、それはもはや権力者です

 そこには次のような意味合いが言外に含まれています。

私は貴方の言動によって傷を負った被害者であり、私は貴方を裁く立場にあり、許すかどうかを決める権利は私にある

 つまり許しとは「自身は権利を独占した優越的地位であり、私を傷つけた貴方は下側の存在である」とする発想であり、自身の価値を高く見積もり他者の価値を過少に評価するマウント行為です。

 

 もちろん内心でそんなことを一切考えておらず、博愛的な寛容の心を持っている場合もあるでしょう。

 それが恐ろしいところで、許しの上下は心理ではなく構造によって生じます。どれだけ清く無垢な心であったとしても、他者を許す行為自体が構造的な道徳マウントを引き起こす以上、道徳面での是非は問われるべきです。

 

そもそも許す必要はない

 「他者を許す人は自省的・内省的であるが、自分を傷つけてしまいがちなので無理をしてはいけない」と言ったことも書かれていました。

 優しい言葉なのだとは思いますが、そもそも本当に自省的・内省的であれば「許す」という発想自体が不要です。

 他者の振る舞いは他者の意思によるものであり、それによる自身の心情は全て自身で定めることであって、そうである以上、責任は元々全て自己にあるのですから。

 「許す」発想は、「相手の行為が自分に”傷”を与えた」としている以上、前提からして他責です。つまりは次のような欲求に囚われていると言えます。

  • 被害者としてアイデンティティを保持したい
  • 自分の道徳的優位をアピールしたい
  • 他者に対して上位者として振る舞いたい
  • 自分の感情の責任を外部に置きたい

 そしてややこしいことに、これらは上位者・支配者だからそう考えるのではなく、むしろ真逆であることが苦しみの根底です。他者の行為に心を支配されている被支配者だと感じているからこそ苦しみが生じているのであり、「許し」とはそれに対する心理的な抵抗だと言えるでしょう。

 

 しかしながら、他者の振る舞いによって傷つくかどうかは自分の心の働き次第であり、人間心理の本質として自分の心の責任は自分にあります。

 もっと率直に言えば、心が傷ついたのだとしたらその傷をつけたのは自分である、畢竟、自省的・内省的と言うのはそういうことであり、そもそも他者を「許す」意味が成立しません

 心の主導権を自分が握っていれば他者の行為に心を左右されることもありませんし、反発としての道徳的優位の演出も不要です。外部に原因を求めなければ感情の処理も容易になります。

 

そもそも責める必要すらない

 さらに本質的な話として、許しも内省も「責める」行為の別側面だと言えますが、そもそも何かを責める必要すらありません

 許すとは、他者を「悪い」と裁定し、その上で寛大に見逃してあげる上位者のポジションを構造的に取る行いであり、実質的には「他者への責め」を前提としています。

 対して過剰な自省による摩耗は、自分を「悪い」と裁定し、延々と自傷のループに入る行いであり、「自身への責め」です。

 これらは責める対象が異なるだけであり、類似の行為だと言えます。

 

 しかし責めることに意味はありません。

 そこから生まれるのは苦しみだけです。何かを「許そう」と考える人は苦しみを除去することを願っているはずであり、そうであればもっと効果的な方法を取ったほうが妥当です。

 そのためには、「何かがあった時に何かを責める」という反応そのものを止めるほうが、遥かに根本的で、精神的にも倫理的にも健全な心の働きとなります。

 心の主導権を握って反射を抑えていれば「何も責めずに済む」、成熟した静穏を得られることでしょう。

 

結言

 己の心を殴れば当然痛いですし、他者の心を殴るのも拳を痛めます。

 そもそも殴る必要などないことへの気付きこそが苦しみを遠ざけることに資すると私は確信する次第です。